20260717(木)
エアドロップとハガキ②
▼さて、先週の続きである。目つきの悪い同級生の名はケンゴくんという。甲斐よしひろの『サウンドストリート』で、僕のハガキが読まれたことに気づいてくれた、たったふたりのうちのひとり。仲よくなってから、目つきが悪いのは素行が悪いからじゃなく視力が低いだけだとわかるのだが、高校卒業後、ケンゴくんは音楽系の専門学校へと進む。東京にある2年制の学校だった。僕はといえば志望校にすべて落ちて、浪人生活がスタート。舞台は東京、全寮制の予備校。外泊のたびに「ケンゴくん宅」と申請しては、狭いアパートで浪人生のブルースを聞いてもらい、彼の近況を聞くのが好きだった▼そして1年後。ケンゴくんに事件が起きる。高校生の頃のケンゴくんはまったくもって優等生じゃなかったくせに、専門学校では真摯に音楽と向き合ったのだろう。なんと、特待生となったのだ。詳細は忘れてしまったが、たぶん、2年目の授業料が免除だったはずだ。すごいぜ、ケンゴくん。なのに、2年生に進級する頃に突然、学校が倒産する。大学生となっていた僕は、その知らせを聞いて「なんていい加減な学校なんだ!」と憤慨したけれど、彼はたくましかった。ずっと目指していた音楽の仕事「ミキシングエンジニア」見習いとして、スタジオ勤務をあっさりと決めてきたのだ。高校時代の僕らがよく聴いていたのは、甲斐さんが推していた憂歌団というバンド。けれど、プロのミキシングエンジニアになってからのケンゴくんは、ギター・内田勘太郎さんのすごさを語る視点が高校時代とはまったく違っていた▼やがて、ケンゴくんは日本を代表するミキシングエンジニアとなる。僕はといえば、ライターとしてなんとか食えるようになったのが30をすぎた頃だった。某有名ミュージシャンのインタビューが自分なりに(うまくいったかも?)と思えたので、取材後にケンゴくんが高校の友達だと伝えたてみた。そのミュージシャンのミキシングエンジニアをケンゴくんが担当していたことを知っていたからだ。するとその人は「あいつはすごい!」と絶賛し始めるではないか。強面で人を手放しで褒めなさそうなタイプだったから意外だったし、だからこそ誇らしかった▼そして、運命の出会いについて、である。久しぶりに会ったケンゴくんが「この間、甲斐さんと話せたよ」と言う。我々ふたりの間で「甲斐さん」と言えば「甲斐よしひろ」だ。仕事をしたのかたまたまスタジオで出会ったのか、詳細なんてもちろん忘れたけど、そんなことより次の展開である。ケンゴくんが「甲斐さんと話せたよ」と言って、あの頃のことを続けないわけがない。僕は興奮して「で?」という目で続きを催促した。「高校の時の俺の友達が、甲斐さんの『サウンドストリート』でハガキを読まれたんですよ。17歳の時だったんですけど〝俺は種のないスイカなんて食べたくない〟みたいな内容で、甲斐さんは〝すごい17歳〟と褒めてくれて」。甲斐さんは、ひとしきり記憶を蘇らせたのち、こう言ったという。「ごめん、覚えてない」▼どこかの街のどこにでもある喫茶店で、ケンゴくんと僕は大笑いをした。そりゃそうだ。何百、何千と読んだであろうハガキを甲斐さんがいちいち覚えているはずがない。それでも、うれしかった。17歳の時にハガキを送ったからこそ、ぐるりと輪になった物語なのだから▼そして、いま。鯨に比べてのメダカほどのスケールの小ささだけれど、五八歳の僕は〝ラジオでハガキを読む側〟になっているのかもしれない。だからこそ思う。二十歳のルーキの原稿に目を通すたび、えらそうに赤入れするだけじゃなくて自分の文章もうまくなりたいなぁと。17歳の頃や、駆け出しライターになった頃の衝動を忘れずに。というわけで、昨日までの瀬戸内キャンプ旅に続き、明日からは北海道でフェス旅です。湿布を張って、いざ、行ってきます(唐澤和也)