あはははの実
▼「あははは」と、さちが笑う。東京・練馬の居酒屋でのこと。練馬は、大学生の頃に僕が住んでいた街だ。大きな道沿いに異国情緒が漂う渋くて怪しげなバーがあり、僕はそこでアルバイトをしていた。働き始めた頃のあだ名は「鉄仮面」。ネーミングの由来は、あまりにも愛想がなかったから。少し前の芸人の世界風に言うと「ジャックナイフ」といった感じ。なぜ、あんな感じだったんだろう? いまではよく思い出せないけど、そんな感じだから、チェーン店的なアルバイトを軒並み面接で落とされていた。すがるような思いでその店のドアを開いて採用してもらった時は小躍りしたいぐらいうれしかった▼さちは、アルバイトの後輩で、働き始めた頃のあだ名は「鉄仮面2号」。ただし、彼女の場合はジャックナイフだったわけではなく、ただ単に余裕がなくて笑顔すらひきつっていただけ。なにせ、当時のさちは17歳。高校生でバーで働きたいと思うのもすごいが、雇ったお店もすごい。時は平成になったばかりの頃で、令和のいまよりもいろんなことがおおらかだった▼それから、35年後の東京・練馬の居酒屋で「あはははは」と、令和のさちが笑う。その夜に集まった当時のアルバイト仲間やさちの高校時代の友人も、つられてみんなで笑う。なんだか、名前のない飲み会だなぁと僕も笑いながら思う。同窓会といっても間違いではないのだろうけど、でも、ちょっと違う気がする。あえて名付けるのなら「さちの会」だ▼彼女はお勉強ができるタイプではなかった。アイスコーヒーの省略文字はICEの「I」だが、彼女は堂々と「A」と書いていた。それじゃあACEでエースコーヒーになってしまうと指摘すると「そっか」「あははは」と笑った。18歳でバイクの免許を取って、バイト仲間とツーリングに出かけた時もそう。ひとしきり走ったあとで「あぁぁぁ!」とさちが叫ぶ。「どした!?」と心配してかけよるバイト仲間。聞くと、走り始めからずっと、革ジャンかなんかのアウターをぶら下げていたハンガーを背負って一緒に走ってきたらしい。いや、気づけよ。どうりで姿勢がいいと思ったじゃねぇよ。てなことを言い合いながら「あははは」とふたりで爆笑したそうだ▼高校を(そしてバイトも)卒業した彼女は、美容師を目指し、毎日ハサミを握り、東京・渋谷のお店を任されるまでになる。なのに、27歳。「このままでいいのかなぁ?」とモヤっとする閉塞感にさいなまれる。モヤっとする閉塞感なんて多くの人が経験することだし、たいていの人はやりすごすもの。でも、彼女はそのモヤっに飛び込んだ。ずっと憧れていたアメリカへ行くことを決めたのだ。かの地で美容師の仕事を見つけ、パートナーと出会い結婚、2人の女の子を授かり、たまーに日本に帰ってくると「さちの会」を開催してくれる。アイスコーヒーの略字は「A」だったのに、アメリカで家族を育てながら英語もペラペラ。寝て見るほうの夢では、英語と日本語が半分づつぐらいらしい▼平成の高校生だったさちも、母であり美容師でもある令和のさちも、同じボリュームで「あはははは」と大きく笑う。みんなも笑う。嫌なことがあった人も「ま、いっか」とつられて笑ってしまう気がする。あれはもうなにかしらの才能だ。もしも、さちが漫画『ワンピース』の登場人物なら、「あはははの実」を食べちゃったんだと思う。そういえば、「あははは」と笑うさちから人の悪口を聞いたことがない。元「鉄仮面」仲間として、さちの人生と彼女の笑い声を尊敬している(唐澤和也/2025.09.06)