20250802(土)
誰かにしゃべりたくなる国宝
▼1か月ほど前のことだ。その頃すでに話題となっていた映画『国宝』を観て、綴ったのがこんな感想だった。以下、ネタバレってやつを含みますので、映画未見の方はあしからずでございます▼まず、ソフィアン・エル・ファニのよる撮影が素晴らしい。オーソドックスの素晴らしさを守りつつ(おそらく歌舞伎という日本の伝統芸へのリスペクト)、「ここで俯瞰かよ!」といった、常に(なにかもっとできないか?)と試行錯誤しているであろう映像にもっていかれた。とくに、主人公の喜久雄が堕ちに落ちて「どこ見てるの?」と駆け落ちした彼女にまで去られたあとの屋上の〝絵〟は、映画泥棒のように怒られないなら、盗撮して毎夜見返したいほどに美しかった。役者の素晴らしさは、言わずもがな。喜久雄を演じた吉沢亮、その若き頃を演じた黒川想矢、堕ちたあとの横浜流星、永瀬正敏と渡辺謙と田中泯がでてるとこ全部、素晴らしかった▼なのに、僕の評価は5点満点の3.0。他人におすすめしている基準が4.0以上なのに、それに遠く及ばぬ3.0。原作を未読なので、原作なのか脚本なのかは、わからない。でも、物語を紡ぐ、つまりは、人間を描くうえで幹のように重要なもの(愛とか才能とか)が「記号化じゃん!」と感じられてしまったから。記号化=感情や行動にリアリティがなく、観客の感情を操作しようとする都合の良さとでも言えばいいのか。たとえば、主人公のライバルが失意の底に堕ちるのをみた彼女が主人公を捨てて彼についていく展開も(女ってそういうところがありますよね?)という安易な記号化に感じられてしまう。なんでもかんでも描写しろとは思わないが、あまりにも雑。そして、ラストのあのくだり。主人公の娘が口にする「憎んでる、でも芸はすごい」というありがちな言葉。前出の「役者が素晴らしい」ということは監督の演出が素晴らしいということ。なのに、その素晴らしさを放棄して安易な言葉でまとめられた気がして個人的には残念だった▼てなことを、書き終わったあとは、正直、かなりのドヤ顔だった。野球のバッターでいうところのホームランだとの手応えがバッチリな確信歩き。でも、である。あれから1か月ほどの間にいろんな人と『国宝』の感想を話したり、さまざまなメディアで動画やレビューを見聞きするうちに(あれ? 俺の感想、つまんないのかも?)と揺らいでいる▼揺らいでいる理由は、ふたつ。ひとつはあまりにも賛否両論の賛で埋め尽くされているから。世論が。世論とはいささか大袈裟だが、それぐらい本作は大ヒットしているし今後ますます加速していくことだろう。つまり、自分の感想の内容というより、賛否の「否」であることの揺らぎ。これだけ大ヒットしている映画に心から感動できない自分は、人としてちょっとおかしいのか? これはあれか? あの感じか? 身近な人の葬式でひとりだけ泣けない人的孤独感ってやつか? そんな揺らぎのなかを彷徨っていると、もうひとつの揺らぎと突然に出会ったのだった▼2日前のこと。仕事終わりで23歳の後輩との食事の席。その子はエンタメ好きなタイプなので自然と『国宝』の話となった。カマスの塩焼きを「カボスの塩焼き、おいしいですね!」と口にしてしまう、やや天然成分が高い彼女が言う。「映像は美しかったです。役者さんもすごくて圧倒されました」。なるほど、23歳にもこの映画は届くのだなぁと思っていると、彼女がちょっとテンションを高めてこう続けた。「でも! 物語としてはまったく刺さりませんでした。私、主人公がクズの映画って好きじゃないんですよね!」。思わず、口に含んだカマスの塩焼きを吹き出しそうになりながら、僕が言う。「人間国宝をつかまえて、クズってどういうことよ?」。「いーーや、人間国宝だろうがクズはクズです。だって、国宝のくせにどんだけの人に迷惑かけてるんですか、あの主人公!」。彼女の言葉には、一切の忖度がなかった。だから、おもしろかった。それに比べて僕の感想は……と揺らいだのだった▼そんな秀逸な否の意見に揺れた一方で、関係者の言葉で胸に残ったものもあった。たとえば、主題歌の作詞を担当した坂本美雨さんのご自身のラジオ番組での言葉。ゲストの渡辺謙さんが歌詞の素晴らしさをわざわざ朗読までして伝えるのだが、美雨さんは映画の主人公と自分の父親である坂本龍一氏が重なり、その思いを歌詞に込めたのだそうだ。大天才・坂本龍一が父親であるが故にふりまわされることもあったようだが、それでも、父親が「幸せだったらいいなぁ」と祈るような気持ちを歌詞に込めたのだそうだ▼人が誰かになにか言いたくなる作品は、やっぱりすごいし、たぶん傑作なのだと思う。それでも、いざという時にひねくれ者である僕は、やっぱり『国宝』を傑作とは言い切れない。23歳の後輩のように主人公をクズと感じているからじゃなく、むしろ、あそこまで表現に殉じられることは素直に尊敬できる。映画、小説、漫画、落語と表現の如何を問わず〝人間のどうしようもなさ〟に惹かれるからこそ、『国宝』の映画ならではの表現に期待しすぎなのかもしれない。またしても、揺らぐ。それは、ぐるりと一周して、最大級にして不可解な揺らぎ。その正体を探しにもう一度劇場に足を運ぶしかないのだと思う(唐澤和也)