20250517(土)
はなぢのおもひで

▼「あの鼻血のおかげでいまがあります」とKくん(仮)は笑った。ライターのKくんはフリーランスで、現在31歳。僕が知り合ったのが6年ほど前のことで、当時の彼はまだまだ駆け出しだった。以後、いろいろと手伝ってもらうようになり、鼻血を出したのは「その2年後ぐらいだったかなぁ」と笑う。Kくんは笑って思い出してくれたけれど、なにかとハラスメントが取り沙汰される令和の時代である。もしも「コワ澤さんのせいで鼻血が出ました〜」と訴えられたら敗訴確定だった。僕たちの仕事には締め切りがつきものとはいえ、連日連夜ふたりでパンチラインの事務所に詰めていて、完全にブラックな働き方だったのだから▼そんなブラックなある夜。「あ……」とKくんが短くつぶやくとトイレへ急ぐではないか。「ん?」といぶかしがる僕。戻ってきたKくんが笑いながら言った。「鼻血、出ちゃいました」。彼の鼻にはティッシュが詰まっている。「マジか?」。ひとこと返した僕とKくんはふたりで笑った。深夜のパンチラインでゲラゲラと、なにかが壊れたように笑った▼鼻血から5年後のいま、Kくんは多数のレギュラーを抱えるライターとなった。あの夜に鼻血を出した仕事は、書名タイトルこそ変わったけれど、いまでも敢行が続いていて、いっしょに仕事している。というか、いまやKくんがリーダーだ。ブラックな働き方を改善すべく、のべ制作期間は長いけれどゆるやかに仕事できるよう、完璧なスケジュールをKくんが組んでくれてもいる▼「仕事にかぎっていえば、おもしろいけど楽しくはないんだよね」。ある夜、別の後輩にカッコつけて語った僕の言葉だ。カッコつけているけど、まったくもってカッコよくなんてない。だって、昭和男子ならばわりと多くの人が抱く感覚で、オリジナリティなんて一切ないのだから。しかも、Kくんの鼻血エピソードを書いていて自省させられたのは、あの仕事の思い出は「おもしろい」というより「楽しい」であったということ。少なくともあの夜にゲラゲラとなにかが壊れたように笑ったのは、楽しかったからだ▼「どの口が何言うかが肝心」と謳ったのは、ラッパーのMACCHOだ。つまるところ、このパンチラインに尽きるような気がする。昨夜の僕は「オリンピック選手が国を代表しているくせに『楽しむ』と口にしたとしたら違和感があるんだよね」などとカッコつけてもいたが、これまた1ミリもカッコよくない。「どの口が」「楽しむ」と言っていたかだよなぁといまならば思う。Kくんと僕が笑えたのも、鼻血という〝出オチ〟ではなく、連日連夜ブラックな時間を重ねたという〝フリ〟があったからこそ。もしも、鼻血どころじゃなく血尿が出るほどの修練を子供の頃から重ねてきたアスリートが、日本国内の激しい競争にも勝ったその果てに「オリンピックを楽しもうと思います」と語ったなら。違和感なんてあるわけがなく、素直に「がんばれ」と叫び、その人の活躍を願うはずだ▼「おもしろい」とか「楽しい」とか、所詮言葉だ。所詮だなんて仮にも文章を綴ることを生業としている人が使う言葉じゃないかもだが、所詮だ。二択ならばどっちでもいい。ポジティブかネガティブなら、前者ならそれでいい。いや、その瞬間はネガティブだとしても、いつの日かポジティブになるならそれでいい▼僕の大好きな漫画の主人公は、心のなかの師匠にこう言われる。「もっと笑え」。僕ももっと笑おうと思う。「おもしろい」でも「楽しい」でも笑えるのならそれでいい。そもそも、仕事とそれ以外との線引きもどうでもいいやという気もしてきた▼というわけで、仕事ではなく完全プライベートで、いまから鳥取県智頭町へ田植え体験に行ってきます。もっと笑うために(唐澤和也)