20250416(火)
二十歳のころ

▼二十歳のころの僕は人生で一番嫌なヤツだった。と、書き出してやめた。書き出しの文章のキャッチーさ先行(別名、出オチ)だし、そこまで嫌なヤツでもなかったし、第一、ちゃんみなの言葉に反する。〝ノノガ〟と略されるオーディション参加者への「昨日の自分を抱きしめてあげて」という言葉。ちゃんみなは、かつての自分がそうであったように、世間からNOと言われた女子たちへ、言わば敗者復活戦としてそのオーディションを企画していた。そして、自分で自分にNOを突きつけるのは違うと言っていた。ある日の僕は(そのとおりだ!)と激しく共感し、昨日の自分を抱きしめたのだった。おっさんが昨日の自分を抱きしめるだなんて冷静に想像すると滑稽なだけだが、まぁとにかく、あの日の僕と同様に、この文章の書き出しをよしとしないと決める▼二十歳のころの僕は人生で一番名前負けしていた時期だった▼「人の和を大切にするように」。和也という名前に両親が込めてくれた願いがこれだ。でも、十八歳から浪人生として東京で暮らし始めたとはいえ、なにしろ生粋の田舎者である。たかだか東京2年目でこの街になじめるわけもなく、標準語の語尾「じゃん」が恥ずかしくて口にできなかった。そんなテンションで迎えた、新入生歓迎ムード一色の春。桜舞う大学のキャンパス。現在の東京で、言葉を聞かずとも同じアジアの人々でも海外の観光客だとわかってしまうように、大学のキャンパスでも1年生は一目瞭然だった。当時はサークルの勧誘にチラシを手渡しで配っていたのだけれど、僕もみんなと同じ新入生だというのに、みんなのようにはチラシがもらえやしない。いや、みんなのようにはどころか、只の1枚すらもらえなかった。老け顔のせいで1年生には見えなかったのか? しょうがないので、掲示板に貼られていたチラシからゴルフ系サークルを選ぶ。深い理由なんてものはもちろんなく、ちばてつやの『明日天気になあれ』というゴルフ漫画を愛読していたからだった▼ゴルフは楽しかった。初めてのラウンドは119というスコアで、初心者にしてはすごいと褒められた。同級生のサークルメンバーもいいやつばかりで、愛媛や神奈川や東京、そして愛知と出身地によって方言が異なるだけでなく〝育ち〟が違うのもおもしろいかった。公認会計士や社長を父に持つ者、高校で登山部だった者、そして他校の女子たち。自分とこの大学生だけでなく、他校の女子大生がサークルに参加するだなんて、東京ってすげえと思った▼冬のラグビー明早戦も思い出深い。我が母校・明治大学の学生たちは、決して早明戦とは言わない。一番安いチケットを手に入れるため、前日の夜から徹夜で並んだ。ってことは、当日券だったのかもしれない。並ばされるのはヒエラルキー下層の1年生と2年生男子。でも、そういうのも嫌じゃなかった。その夜、僕たち2年生は次の日には忘れてしまうようなくだらない話をして寒さをしのいだ。なにより、翌日の明早戦が伝説的一戦だった。雪が積もるグランド。スクラムを組む選手たちの熱が小さな雲のように湯気となって空に舞う。まさに極寒のなかでの熱戦。ラグビーにしてはロースコアな7対10で、明治大学は敗れたが「人生初のスタンディングオベーションはいつですか?」と聞かれたらその時だと僕は答える▼なのに、辞める。そのサークルを辞める。大学3年生の春、4月うまれの僕にとってギリ二十歳のころだったように思う。新入生歓迎コンパの夜。吹き抜けの2階にいた先輩が、僕としゃべっていた新加入の1年生の頭上になぜか突然酒を浴びせかけてきたのだ。唖然とする僕とその1年生。元体育会系なのでギリ敬語をキープしていたはずだけれど、僕はその先輩に詰め寄った。「冗談じゃん」。笑えなかった。これは無理だと思った。そして、辞める。人の和を大切にできずに名前負けした夜だ▼その後も、名前負けは続く。大学3年生となった僕は「マスコミ研究室」というゼミに合格する。サークルを途中で辞めたことのコンプレックスもあり、必死で勉強した、ひとつの成果だった。なのに、そこでも先輩の偉そうさ加減にうんざりして辞める。あれ? 僕という人間は、先輩という存在が嫌いなのだろうか? いやいや、そうではない。劇団時代からの師匠は年齢的にもキャリア的にも先輩だけど大好きだし、出版業界の先輩でも好きな人がいっぱいいる。無意味に偉そうな先輩ヅラした人が嫌いなだけだ▼この春、二十歳の頃の想い出を反面教師にしようと強く思う。パンチラインに新しく入ってくれた後輩は、若干二十歳のルーキーである(唐澤和也)