20250315(土)
いい音と悪い間

▼『いい音がする文章』という書籍を買った。元チャットモンチーのドラマーであり、現在は小説や作詞などの文筆活動を続けながら農業も営んでいる高橋久美子さんの著作。これがもう、まだ読み始めたばかりだというのに超絶おもしろい。なにせ、テーマがすごい。ライターである僕は、文章に関して「いい音がする」だなんて一切考えたことがなかった。だからこその衝撃的パンチラインであった▼僕が大切にしてきたのは逆だ。あ、「悪い音がする文章」にこだわってきたわけじゃないですよ。「間が悪い文章」を嫌悪してきたように思う。そう、嫌悪。週刊誌で育った僕は、何人かの優秀な編集者に「赤入れ」と呼ばれるダメ出しを受けながら、少しずつプロフェショナルなライターになっていった。それでも「間が悪い」とダメ出しされたことはないから、わりとオリジナルな感覚なのかもしれない▼その感覚の出自は劇団だ。師匠が劇団メンバーに芝居の稽古をつける時に「間が悪い」「そう、その間!」とよく口にしていて、なによりも間を大切にしていたのだ。「ま」と読む。僕は裏方だったので芝居の間についてダメ出しされただとかの体感はしていない。だからこそ、その言葉の意味するところが知りたくて、でも、考えても考えてもよくわからなかった。僕が所属していた劇団はコント、つまり、笑いの劇団だったのだけれど「間の笑いは気持ちの笑い。だから、おもしろい」とも師匠は言っていて、その言葉は心の深いところに残った。完全に理解できたわけじゃないのに、なぜか、それが真理であると心底わかる感覚。のちに、観客として見に行ったシティボーイズの舞台で確信に至る。大竹まことさん、きたろうさん、斉木しげるさんの3人のコントは、「間の笑いは気持ちの笑い」であり、観劇した夜はなかなか寝付けないほどにおもしろすぎて興奮した▼時は流れてライターという肩書きに自分自身が慣れてきた頃。ある歌舞伎役者のインタビューをしたことがあった。前後の流れは忘れてしまったのだけれど、間の話となり、その人が教えてくれた言葉もずっと心に残っている。「芝居における間が怖いのは、じゃあやってみろと言われると誰もができるわけではないのですが、間の悪い芝居を見ている観客にはほぼ全員に分かっちゃうことなんです。よき間を演じることは難しいが、間の悪さを見抜くことは簡単。だから、演じ手として、間は怖いんです」▼かくして、コントや芝居の観客として、間の傍観者であった僕だけれど、ある日を境に自分ごととなる。自分の書く文章の間の悪さに自分でダメ出しするようになったのだ。書く。プリントアウトする。自分で読む。間の悪さで眉間に皺がよる。書き直す。プリントアウトする。眉間に皺が寄りすぎて割れそうになる。眉間が割れるか納得のいく文章が書けるかの勝負かってぐらい何度も続くループ。もちろん、より読者に伝わるようにだとか、日本語として適切だろうかなども確認していたけれど、一番大切にしていたのは「間が悪い文章」への嫌悪だった▼「いい音がする文章」と「間が悪い文章」は、たぶん表裏一体の感覚だと思う。ロジカルに説明するのは難しいけれど、文章を書く人になら、プロアマ関係なくわかってもらえる気がする。ふたつとも「正しい文章」とは別次元の感覚だからだ。しかも、「いい音」も「間が悪い」もその人によって個人差があるはずで、絶対的なものじゃない。自由だ。それがいい。それがいいのだけれど、今週の僕が「いい音がする文章」のほうに惹かれたのは圧倒的にポジティブだから。たとえば、鳥取大学の講義では「ここはちょっと文章の間が悪いかもね」などとアドバイスしていたけれど、それだけじゃなくて「この文章、いい音がするね」とも言ってあげられたなら。「間が悪い文章」を嫌悪しつつ「いい音がする文章」を愛する。今後のライター人生は、これでいこうと決めた週末でした(唐澤和也)