20250112(日)
小さな声のエトセトラ

▼あけまして、無風です。昨年9月に突如として痛い風が吹いて以来(まさに突風!)、そういうことにアンテナが立っているのか、普段は見ていないNHKの番組で尿酸値コントールの特集をやっていることにふと気づいてガン見したりはして。でも、無風です▼ところで、かくも自分で自分を観察するようになったのは、痛い風が吹いたことの数少ない効能だったのではなかろうか。ココでも何度か書いたけれど、もしかしたら酒ではなく酒席や雑談が好きなだけでアルコール抜きでも楽しめるのではないかとか、歩くって健康にいいだけじゃなくて思考の整理にも役立つんじゃなかろうかとか。そんな感じで自分で自分を観察するようになって、一番の驚きは、好きな文章が増えたことだ。2024年の年末からこっち〝小さな声の文章〟を好きだと感じた自分がいる▼たとえば、荒川洋治さんの『ぼくの文章読本』。タイトルの印象と違って、文章におけるハウトゥ本ではないところが、声高じゃない。<私の文体>についてとの依頼で綴った文章には<「①知識を書かないこと。②情報を書かないこと。③何も書かないこと。」。ぼくは文章を書きながらこれらの条件を肝に銘じ「いい文章になりますようにように」と心からお祈りする>なんて書かれている。荒川さんは1949年生まれの詩人だそうで、文章だけじゃなく人生の大先輩でもあるわけだけれど、「文章はこう書くべし!」ではなく「私はこういう文章は書かない」と綴っているのが若々しくて瑞々しくてフレッシュだ。文章から柑橘系のにおいがするし、小さな声の素敵さがある▼年末に拝読した荒川さんの『ぼくの文章読本』でアンテナが立ったのか、小さな声の文章に惹かれた作品はまだある。さくらももこさんの『もものかんづめ』だ。家族との日常やOL時代の些細な生活描写の〝ももこ節〟がキレキレで、父親といっしょに笑う場面の描写を「ケタケタと機関銃のように笑った」なんて書く。読者として笑って、書き手としてうならされる、文章の妙。大谷翔平を知らない高校球児なんてほとんど存在しないと同様に、僕の世代のライターでさくらももこさんの文章を知らないだなんて、恥ずかしくて悔しかった。ならばと、噂には聞いていた『さくらももこ展』に行こうと思い立つも、新年の5日で終わっていたという悪循環。とほほ、だよ。と、漫画のほうのももこ節を真似たくなるほどに興味津々なので、7月から新潟県で開催される同展には是非ともで行きたいと思う▼それにしても、なぜ、新しい風が吹いてきたのだろう。ライターなのだから文章なんて趣味嗜好のど真ん中で、そうそう好みが変わるもんでもないはず。妊娠・出産を経て、飲めなかったお酒が飲めるようになった人のことは見聞きしたことがあるけれど、まさか、痛い風を患うと仕事で大切にしているものが変わる、なんてこともないだろう。となると、思い当たる出来事は『海と生きる』しかない。書いて、書いて、書いたあの日々を経て、たぶん、自分の中のなにかが変化したのだ。それは、なにかが出入りしたというよりも、形は変わらずに色が混ざったような感覚。もちろん、だからといって、今日から荒川洋治さんや、さくらももこさんのような文章を書けるようになるはずもないし、あいかわらず大きな声の文章を狙って書くこともあるだろう。それでも、2025年からの自分の文章がよき意味で変化するかもしれないことに、いまこの時も指先が踊っている(唐澤和也)