20241213(金)
年末ぐるぐる
▼怒涛の2024年が終わろうとしている。この一年間は、とにかく書いた。僕が文章を書くのは主にワードというアプリで、やろうと思えば「この一年間で何文字書いたか?」を調べることもできるが、絶対にそんなことはしたくない。それはまるで、フルマラソンを終えたばかりのランナーにその人が走った路面の映像だけを延々と見続けさせる拷問に近い▼すべては、言霊のせいだ。いつの頃からか、年末に来年の目標漢字一文字を決めることにしていて、2023年末は「書」だった。10年後に2024年を振り返っても「あの一年間は、まぁ書いたね!」と思いだす自信がある。敬愛する『BLUE GIANT』という漫画の主人公・宮本大がサックスを「吹」く量に、この1年間の「書」くはそこそこ迫れた気がする▼その内訳でいうと『海と生きる 「気仙沼つばき会」と『気仙沼漁師カレンダー』の10年』こそが書いて書いて書いた筆頭なのだけれど、ふと思ったのは(そもそもなぜに気仙沼と出会えたんだっけ?)であった▼逆回しのフィルムのように、ぐるぐると戻ってみる。まず、最大のきっかけは集英社の編集者・宮崎くんがこの書籍の企画を立案してくれたおかげだ。じゃあ、なぜ、この企画を進めようと思ったかの詳細は彼にしかわからないけど、ひとつのきっかけは、数年前の僕が『気仙沼の女たち(仮)』という書籍を作ってみたいと雑談レベルで相談したからだ。(仮)の案は、『気仙沼漁師カレンダー』のライター仕事を通じて出会った気仙沼つばき会のパワフルな女性たちの印象が(なぜに会う人会う人、かくもおもしろいんだ!)と驚愕し感動したからだった▼ぐるぐるはさらにそもそもへと遡る。なぜに『気仙沼漁師カレンダー』のライターになれたかといえば、プロデューサーの竹内順平くんが指名してくれたからで、その順平くんを「気仙沼つばき会」に相談されて指名したのが、小池花恵さん(and recipe)である。順平くんを指名した時の彼女は、ほぼ日・糸井重里さんの秘書であり、前職は吉本興業のマネージャーであった。彼女が吉本の新入社員の頃に『マンスリーよしもと』という月刊誌の編集&ライターだった僕ともがっつり仕事をしており、のちに、順平くんと僕をつないでくれたのも彼女である▼となると、キーマン、いや、キーウーマンは小池さんだが、もう少しぐるぐるしてみたい。まだちょっと文字数が足りないというリアルな裏事情はあるにせよ、年末だからこそ、とことん振り返ってみるのも悪くない▼『マンスリーよしもと』の仕事ができるようになったのは、スタートという編集プロダクションのおかげだ。スタートの社長であった占部さんは元扶桑社の編集者で、そのつながりから(ざっくりいうと、当時の東京吉本のトップがフジテレビ出身者だった)東京吉本が新規に作ろうとしていたフリーペーパー、そのプレゼン参加のチャンスがもらえていた。僕は、必死だった。28歳でこの世界に入ってから一番必死だった。スタートの仕事で年商3000万円を失ったばかりだったからだ▼当時の僕は、占部さんから、ある雑誌の週刊連載の編集業務を譲り受けていた。その仕事が年商3000万円だったのだけれど、あることをきっかけに(ざっくりいうと、クライアントでもある編集者に僕がキレてしまった)、当然おもしろくない編集者および版元は僕およびスタートを切った。非は完全に僕にあるし、若気の至りにもほどがある。けれど、キレる前に相談したら「唐澤の好きにしたらいいよ」と笑って言ってくれた占部さんに申し訳なさすぎて、東京吉本の新規の仕事は絶対に勝ちたいと必死だったのである。そして、幸運にもスタートのプレゼンが勝った。この仕事がきっかけとなり、やがて『マンスリーよしもと』へとつながっていく▼となると、キレ澤がキーマンということになる。が、なんか違う気がする。キレたことが気仙沼につながるのは、なんだか嫌だ。美しくない。ぐるぐるをちょっと戻して、方向転換してみよう。キーマンやキーウーマンではなく、キーワードならば「笑い」だ。師匠である堀部さんと出会ってコントの劇団に所属しなければ、ドリフターズすら見ちゃダメな家庭に育った笑いに無知な僕が先述のプレゼンで勝負することすらできなかったはずである▼となると、やっぱり、劇団だ。23歳から28歳のあの日々だ。残念ながら笑いの才能が一切なかったけれど、あの頃の僕は書いていた。原稿用紙にして1000枚ほど。コントなんて恐れ多くて名乗れないその駄文は、ただの1行ですら笑えなかった。逆に、その事実が笑えてくるほどの圧倒的な才能のなさ。でも、だからこそ、自分にはできないことができている芸人や笑いに関わるプロフェッショナルを心底尊敬できるのだと思う。あのプレゼンにもそのリアリティが溶け込んでいたのだと思う。つまりは「書」。才能なんて一切なかろうがとにかく書いた僕の劇団時代の日々もまた、2024年のいまにつながっていたことに、「書」くことで初めて気づいた年末の週末でした(唐澤和也)