20240622(土)
ネパールの学校と日本の給食①(再録)
▼カメラマンの関くんは、見事なまでにじゃんけんが弱かった。行きのクアラルンプールの空港でじゃんけんに負けてみんなの食事代を払い、コタンへ向かう道中でコーラ代をだし、帰りのクアラルンプール空港でもビールやなんだかんだをおごってくれた。2015年の夏のことだから、いまから9年ほど前の話。僕たちはネパールを目指していた。参加メンバーは、「and recipe」のふたりとライター&編集者である僕、そしてカメラマンでじゃんけんの弱い関くんであった▼「ネパールの人は、生まれてから2週間でお酒を飲み始めます」。流暢な日本語が、冗談のようにも本当のことのようにも聞こえる。語り部は、日本歴9年半のシャラド・ライくん。2015年7月のある夜、「and recipe」の小池花恵に「高田馬場でおいしいネパール料理を食べませんか?」と誘われて、生まれてはじめてネパールの人と会うことになっていた。それが、ライくんだった。うまれてはじめて食べた水牛のモモ(ネパールふう餃子)が、うますぎるだろと感動していると、ライくんがネパールのことをぽつりぽつりと教えてくれた。メモ魔な僕は「ボクシング元世界王者のパッキャオ似のライくん。熱い男」とノートに文字を走らせる。「ネパールの教育は、日本に比べると最悪です。カーストが残っているので行ける学校が限られるし、そもそも学校の数が圧倒的に少ない。地域に学校があっても、女の子は家の手伝いをしなさいという親もいて通えないことが多いです。そして、先生の質が最悪。日本では約束を守りなさいと先生が子供たちに教えると思うんですけど、その先生が約束を守らない。授業に遅れたり、前日にお酒を飲みすぎて学校に来なかったりもする。だから僕は学校を作ったんです」▼モモのおいしさ以上の衝撃だった。学校を作る? 通うんじゃなくて作る? ライくんは、まるで「今朝、目玉焼きを作りました」ぐらいのあっさり感でその言葉を口にしたけれど、もちろん、紆余曲折があったらしい。それでも作った。見るまえに跳べ。これは、僕が10代の頃にビートたけし経由で知った大江健三郎の言葉で、そんな感じだったのかなぁとライくんに告げると「そんな感じそんな感じ!」とライくんは目を輝かせ、「いい言葉ですね」とノートに残していた。ライくんもメモ魔だ▼そんなわけで、ネパールの子供たち129人が僕たちを見つめている。2015年、8月24日のことだ。飛行機で約12時間(関くんがおごってくれた空港のトランジットを含む)、車で約10時間(何本かの川を車で横断。激流では5センチぐらい流されるを含む)の移動を経て、コタンという村にある「YouMe School(夢スクール)」にたどり着く。この学校は、多くの日本人による募金や応援によって支えられている。日本から送られたという制服と赤い帽子姿の子供たちがかっこいい。生徒のなかには、朝の6時から3時間半もかけて歩いて通う子もいる。もれなくもじもじしている258個の瞳が、日本から来た4人を見つめている▼「and recipe」の料理家・山田英季が、「よし!」と誰に言うでもなく気合を入れていた。いまから彼は、生徒129人に給食をふるまうのだ。メニューは、日本のルウを使ったカレー。レシピを見せてもらうと「鶏肉16000g、じゃがいも5250g」など、桁の違う数字が踊っていて笑える。カメラマンの関くんは、簡易式のプリンターを現地に持ち込んでおり、「生徒みんなのポートレイトを撮りたいんだよね」と、これまた静かに気合が入っている。小池さんは……あれ? いつの間にやら、子供たちに囲まれていた。子供たちの手には折り紙。制服や帽子と同じく、日本から贈られたものなのだろう。どうやら、難易度の高い「金魚」という折り方が自分たちではどうしてもできないから、日本人の小池さんに「折って。これこれ」と身振り手振りでせがんでいるようだ。あとで小池さんに聞くと「超焦りました。だって私、金魚なんて折るの、人生初だったから」と、その言葉とはうらはらに、うれしそうに笑っていた▼みんないいなぁ、手に職があって(小池さんは折り紙職人じゃないけど)。ライター&編集者である僕は、じゃがいもの皮を剥いたり、装飾用の風船をふくらませたり、金魚が折れなくて子供たちにがっかりされたりしながら、メモを取っていた。「水は超貴重」「日本米が用意されてる!」「今回の鶏肉は4kg単位でしか増減できなかったらしい。なぜなら、1羽ずつさばくから」といった具合に(唐澤和也)(初出「and NEPAL」)