20240331(日)
碑文谷のジャクソン

▼碑文谷という町がある。ひもんやと読む。東京の閑静な住宅街のひとつで、円融寺というお寺の近くの緑道は桜の季節も美しい。そんな碑文谷に僕の友達が住んでいる。彼の職業はカメラマン。たとえば、高校球児で次のスター候補のことを「沖縄のダルビッシュ」などと、すでにスーパースターな先輩の名をもじってあだ名的に呼ばれることがあるが、僕の友達は「碑文谷のサミュエル・L・ジャクソン」。略して「碑文谷のジャクソン」である▼ジャクソンだけど、僕の碑文谷の友達は外国の方ではない。バリバリの日本人だ。けれど、「ハワイへ行った時にサミュエル・L・ジャクソンに間違われたんだよね」と右耳に挟んで以来、心の中でそう命名した。背が高くてスラっとしていて手足が長く、目はギョロっとしていていて、本家の個性派俳優とたしかに似ている▼こんなこともあった。北海道のJOIN ALIVEというフェスの取材でのこと。仲良くなったローカルの人との雑談中に「碑文谷のジャクソン」のエピソードを話した翌年。自分たちのテントにサミュエル・L・ジャクソンのポスターを貼って僕らを待っていてくれていた。1年間のタイムラグのあるサプライズに、僕らは笑った▼さて、なぜに〝右耳〟に挟んだのか。それは、僕らの雑談が仕事の移動中に交わされることが多いからだ。友達が運転する。助手席に座る僕。彼の車・フォレスターは右ハンドルなので、僕が座るのは進行方向左側。ゆえに、右耳が効き耳となるというわけだ▼なのに、一度だけ、左耳が効き耳になったことがある。「東海道車中泊」という旅企画でのこと。文字どおり東海道を車中泊しながら旅するという企画だったのだけれど、車中泊した車が1967年製のワーゲンバス。つまり、外車。だから、左ハンドル。ゆえに僕が座っているのが右側で「碑文谷のジャクソン」との会話は左耳が効き耳となったのだった▼その時の旅企画ではこんな原稿を書いている。<全身でクルマを運転する人をはじめて見た。シフトチェンジをする度に、相撲取りが渾身の一番をとり終わった直後のように「はふッ!」と息がもれている。握りしめたシフトレバーはふつうのクルマのようにコンパクトではなく、ちょっとした老人が使えるぐらいの長めのもの。僕らが乗り合わせているのは、1967年製、フォルクス・ワーゲンタイプ2だ。もちろん、オートマではなくマニュアルで、エアコンなんてついているわけがない。右手でシフトチェンジ、左右の足でクラッチとブレーキ、ハンドルはくそ重い。そりゃあ、全身を使わなけりゃ運転もできない。坂道発進なんて「はふッ!」のコンボだ。しかも、たまに気になる被写体があると車内からシャッターを切っている(彼はドライバーではなく、カメラマンである)。走り始めて1時間もしないうちに、運転席のその人から汗がしたたり落ちていて、時折思い出したかのように「はふッ!」ていた。 僕は心のなかで呪文をとなえる。笑ってはいけない、笑ってはいけない、笑ってはいけない。お前はただ助手席に座っているだけで、全身を使っていないのだから。何度目かの信号待ち、何度目かの「はふッ!」。もう無理。僕は小さく笑い声をたてた。運転中に、はふッって。しかも、それを言う時と言わない時の間が絶妙すぎる>▼いつもの右耳には挟みきれなかった言葉もある。カメラマンであり、全身でクルマを運転する男であり、「碑文谷のジャクソン」である僕の友達は、3人の子供の父親でもある。そんな友達がクルマを走らせながら言う。「唐澤くんは答えを急ぎすぎだよ」。3人の子供を育てるなかで「答えを急いじゃいけないんだな」と実感していたのかもしれない。だからこそ、後輩との接し方などで答えを急ぎがちな僕にそう言ってくれたのだと思う。「答えを急がない」。耳が痛かった。巨漢プロレスラーに両耳をつままれてぎゅうっと引っ張られたみたいに。でも、痛かったからこそ、右耳には挟みきれずに、ストンと心に落ちて、そのままそこに残っている▼とはいえ、以後の僕が、答えを急がない人生をすごせているかといえば、けっこうな疑問だ。いままさに「碑文谷のジャクソン」と動いている企画でも「桜、早く咲いてよ!」と急いでるし。たぶん、僕の人生はせっかちだ。それでも、後輩との接し方だけは少しはマシになれた、ということにしておきたい(唐澤和也)