20231215(金)
マリア・カラスが切なくて
▼クラッシック音楽が好きな人ならば「第九」。落語が好きな人ならば「芝浜」。そんな年末ならではのものが自分にもあるといいなぁと思い、仕事をしながら20世紀最高のソプラノ歌手と評される人の歌声を聞いてみた。マリア・カラス。本名、マリア・アンナ・ソフィア・セシリア・カロゲロプーロス。彼女の歌声を聞きながら、そういえばと浪人時代のことを思いだす。予備校の英語の先生がオペラ好きで、アリア・カラスを絶賛していたことを。なんだったら、たまに歌っていた。英語を勉強しにきたはずの浪人生が集う教室で▼時は移ろって現在の僕の事務所。デスクトップPCのマリア・カラスは歌い続けている。その高音ボイスと一緒に記憶もさかのぼり続けたせいで、浪人時代の年末にボヤ騒ぎがあったことも思い出す。当時の僕は、実家のある愛知県ではなく、東京の寮で暮らしていた。予備校が位置する高田馬場まで電車で30分ぐらいの西武柳沢という町にある寮。50人ほどの浪人生が全国から集まっていて、部屋には机とベットがあるだけ。勉強して寝ろ。そういう部屋。壁はクレープの皮のように薄くてプライベートなんて一切なし。隣人の生活音がまる聞こえで、ということは、僕の生活音もまる聞こえられだった▼そして、年末のある日。僕の部屋から5つほど先のAくんの部屋の前に人だかりができていた。「カチっカチっって音がずっと聞こえとったらしいで」。上京してはじめて聞く関西弁の使い手であるKくんが教えてくれた。Aくんの隣人がその音に耐えきれず、寮の職員にかけあったところ、ライターを手にしたAくんがぼうっとしながらカーテンに火をつけようとしていたという。受験シーズンが迫ってきているというのに成績があがらず悩んでいたのだという▼でも、火はつかなかった。その寮のカーテンは防火素材だったから。翌日、親御さんが実家から迎えにきて、Aくんは退寮した。関西弁のKくんが「ひとりで悩まんと相談してくれればよかったのになぁ」とかなんとかいいことを言った気がするけど、正確には覚えていない。Kくんはいいやつだった。全国から浪人生が集まる寮なんて、仲良しこよしなわけがなく、どちらかといえば殺伐としていたけれど、Kくんは誰からも好かれていた。そんなKくんは、受験直前に盲腸になり、その1年を棒に振ってしまう▼燃え上がらない防火カーテンに「カチっカチっ」とずっとライターで火をつけようとする行為は、ある意味では喜劇なのだと思う。だって、いくら「カチっカチっ」しても火がつかないんだから。ボヤ騒ぎと書いたもののボヤにもならぬボヤ未遂騒動だったのだから。でも、僕らはひとりも笑えなかった。Aくんの気持ちがわかったから。あれから毎年毎年年末がやってくるけれど、できることなら逃げ出したかったのは、浪人生というかりそめの肩書きしかないあの年末だけだった▼……って、なんて切ないことを思い出させるんだ、マリア・カラス! いや、違いますね。世界一のソプラノ歌手に罪はなく、そもそもオペラへの造詣の深さなんて一切ないくせに、カッコつけて年末感を醸し出そうとした我が身が浅はかだった。つまるところ、年末のマリア・カラスはまだ時期尚早ではあったが、それでもなお、自分だけの恒例行事ってやつがやっぱり欲しい。忘年会とか紅白とかそいうのじゃなくて「第九」とか「芝浜」的ななにかが▼そんなことを願っていたからか、来年の年末には「第九」「芝浜」的ポジションになってくれる作品と出会えたかもしれない。映画『BLUE GIANT』だ。映画館へ足を運んで号泣させられた作品だけれど、最近発売されたDVDを今週の水曜日に再見して再号泣してしまう。でも、この映画が年末定番化の可能性を秘めたのは、その作品の素晴らしさだけじゃない。ジャズトリオを組む3人の主人公たちが運命のライブをする日が、偶然にも同作を見た今週の水曜日と同じ日だったのだ。それは12月13日だった。来年の12月13日という年末にも再々号泣する予感がある(唐澤和也)