20231208(金)
抱っこっていいな
▼子供のいない私には、当然ながら孫がいない。けれど、孫的な存在を感じさせてくれる後輩がいて、先日もわざわざ、家族で事務所の近くまで訪ねて来てくれた。生まれたばかりの新しい家族と共に。後輩は言う。「抱っこしてくださいよ」。内心で私は思う。(え? マジで? 抱っこしたことないんですけど?)。彼の妻、すなわち赤ちゃんの母親が教えてくれる。「首が座っていないので気をつけて。こんな感じです」。(首……こんな感じ……)と内心でオウムのように繰り返し、抱っこしてみる。心の内で浮かびあがるソーダの泡のような(うわぁ)という感情。軽いけど重い。命の密度が詰まっている。そして暖かい。幸せな温度だ。自然と口角があがる。私は言ったそうだ。「抱っこっていいな」▼という話を昨夜の忘年会で、その後輩の友人で私の友人でもあるデザイナーの北田くんから聞いた。孫的存在を感じさせてくれる後輩が、私が抱っこしている写真と一緒に北田くんにLINEしてきたらしい。北田くんは言う。「〝抱っこっていいな〟はパンチラインですね」「そうなの?」といまひとつピンときていない私。北田くんは続ける。「たとえば〝◯◯っていいな〟の◯◯になにか言葉を埋めなさいってお題があったとして、抱っこはかなりの高得点ですもん」。(たしかにそうなのかも)と私は内心で思う。先の文章で〝私は言ったそうだ〟と伝聞過去形で書いたのには理由がある。自分ではすっかり忘れていたから。そして、言った本人はその言葉をパンチラインだなんてちっとも思っていなかったから▼一夜あけて思うのは、パンチラインを生み出すことを職業とする人たち以外は(ラッパーなど以外は)、案外そんなものなのかもしれないぞということ。パンチラインか否かを決めるのは、実はしゃべり手ではなく、聞き手なのかもしれない。それは活字でもきっとそうで、読み手である最近の私が勝手にパンチラインに選んだのは、俳優ジョディ・フォスターのものだったりする。現在のスーパーヒーロー映画を一部の例外はあるけれども「ブームにすぎない」と否定的なコメントに続けた言葉が「この手の映画は私の人生を変えてくれない」であった。たしかにたしかにたしかに。たしかに、人生を変えてくれる映画はあるし、映画に限らず「それ以前とそれ以後」とで世界を分つ表現がたしかにある。私の世代でいえば「ブルーハーツ以前と以後」とでは世界がまるっきり変わっていた▼一夜あけてもうひとつ思うのは、インタビューというフォーマットの持つ意味みたいなものが、昨夜の会話にはあったのかもしれないということ。先月人生初体験した大学生の「インタビュー概論」的授業の時に、私の経歴を学生に伝えるひとこまがあった。あの時、もしも問わず語りで自分がライターになるまでを語ったのなら、ただの自慢ばなしになってしまっていただろう。そうなるのが嫌で、大学教授に質問してもらって私が答えることにしたのだけれど〝聞かれたから答える〟というインタビュー形式は、おもしろかったかどうかは別にして自慢話にはならなかったと思う。今回の文章も北田くんと雑談して(ある種のインタビューだった)そっかそうかもなと思って書けたことが妙にうれしかった▼ちなみに、北田くんはそのLINEの写真を見て思ったそうだ。(抱っこっていいなつってんのに、ちゃんと抱っこできてねー)と。その写真の私は、両の掌で小さな命を抱えており、それはまるで落としたら弁償しなきゃなガラス製のトロフィを横にして持っているかのようだった。短く言えば、ビビっていた。それでも思う。抱っこっていいな、と(唐澤和也)