20231028(土)
ふとインタビュー

▼ふとさみしくなる。そんな時に使う「ふと」は「不図」のあて字が用いられる。意図の逆、不意図なのかな。国語辞典の新明解さんによれば、「何かの拍子に(これといった理由もなく)その事態が起こる様子」。その伝でいうと、ふとインタビューの授業ができそうです▼現在、その授業内容を担当教授と相談しているのですが、やっぱり最低限の僕のプロフィールは必要かもとなり、実際の授業で使うかはともかく「ライターになるまで&いま」を振り返ってみました。いちおうは形になったものを読み返して感じたのは、インタビューの授業のための資料を作るために自分で自分にインタビューをしたのだなぁということ。沢木耕太郎さんはインタビューの魅力を「水路をつなぐ」という言葉で語られていましたが、少しだけ理解できたその感覚。まさに〝ふと〟忘れていたことを思い出す感じ▼とはいえ、学生さんからするとつらつらと知らないおっさんのプロフィールを聞かされるのもかったるいだろうなぁと思い、見出し的なキーワドを作ることにしました。スラッシュ(/)の前がそのキーワードで、続く文章がその頃の僕という構成でこんな感じ▼…………▼映画『羊たちの沈黙』/23歳。明治大学(商学部)を卒業し広告代理店に就職するも、3ヶ月で退社。知人からLAでうどん屋の店長になる職の誘いを受けるが、ロス暴動のきっかけとなる「ロドニー・キング事件」が起こり、店が破壊されその話もなしに。途方に暮れる。その頃に見た映画が『羊たちの沈黙』で、この作品を見たことで予期せぬ出来事が▼劇団IMF/途方に暮れようが生活費は稼がねばなので、大学生時代にお世話になった東京・練馬のBARでアルバイト生活。店長の後輩で常連客だった師匠に「最近見ておもしろかった映画とかある?」と話しかけられ、『羊たちの沈黙』と答える。映画について話す。その会話のどこに引っ掛かってもらったかはわからないが、「よかったらうちの劇団に遊びに来る?」と誘われる▼原稿用紙1000枚、笑い0/IMFはコントの劇団だった。師匠の師匠は萩本欽一さんという偉大なコメディアンだったから、IMFは東京テイストの〝間〟を大切にする劇団であった。だがしかし、子供の頃からテレビを基本的に見ちゃダメな家庭に育ったので、笑いのいろはがわからない。間なんていまでもわからない。原稿用紙1000枚以上はコントを書いたが一切おもしろいコントは書けなかった。才能0。途方に暮れる。結果、25歳の頃から裏方に転身。劇団の単独ライブで演者が使用する「70年代ヤンキーが履いていた白いエナメルの靴」をいかに安く手に入れるかなどに奔走する▼Q他者との比較ではなく自分のなかで一番誇れる才能とはなにか?/28歳。夏。劇団が解散する。やけに青い夏の空の下で師匠と毎日キャッチボールをして、缶ビールを飲んで、焼き鳥を食べて、笑って、そして途方に暮れていた。<どうしよう、俺>と。考えたのは才能について。裏方になった25歳からの3年間、いかにして劇団メンバーが世に出るかを考え続けてきた。ざっくり言えば人のことを考えてきた。それが解散。じゃあ、自分のことだけを考えよう。人と比較なんてせずに、自分のなかでちょっとでも自信のあることはなんだ? 作文だった。劇団時代初期、ライターのアルバイト的経験があり、楽しかったことも思い出す。そうだ、ライターになろう。ちなみに、この自問自答は、のちにプロとなってから、これぞ!という人には必ず聞く質問となる▼週刊プレイボーイ/28歳。当時の出版業界はバブルとまでは言わないまでも、まだまだ景気がよかったからか、仕事に恵まれて生活が安定する。というか、劇団時代にしでかした、そこそこの金額の借金を数年で完済する。仕事としてターニングポイントとなったのが、週刊プレイボーイという雑誌。芸人、漫画家、ミュージシャン、アイドル、野球選手。エンターテインメントと呼ばれるジャンルのインタビューを中心にチャンスをもらう。週刊誌なので、「打席に立てる回数の多さ」=経験値となることがありがたかった▼マンスリーよしもと&カラス/32歳。フリーランスはレギュラーがあることが金銭的にも精神的にも重要なのだが、週刊プレイボーイだけでなく、同じ集英社の「BART」という雑誌や、情報誌「ぴあ」などの仕事に恵まれる。「マンスリーよしもと」は、当時発売されていた吉本興業の月刊誌。大阪で作られていた雑誌だったが、変化を求めるタイミングだったのか、東京でお笑い好きなライター&編集者としてスタッフのひとりとなる。そして、単行本。僕らが若手の頃は「ライターは立つモノ(=単行本/週刊誌はペラペラしてて立たないから)を書いて一人前」といわれていたのだが、はじめての単行本「カラス」が出る。爆笑問題・太田光さんの0歳から32歳までの自伝だった。劇団時代は、笑いの才能がなく途方に暮れたが、だからこそ芸人を尊敬できたのは大きかった。ライター&編集者としては「お笑い」が武器となる▼みかん農家になりたくて/43歳。想像を絶するスランプに。40歳をすぎる頃から、エンターテインメントを生業としてライター&編集者として生きていくことに、どこかで限界を感じていたのかもしれないけれど、その頃の記憶はもやがかかっている。明確に覚えているのは、好みの合う10歳ほど年下の編集者にRADWINPUSをすすめられたのに彼らのよさがまったくわからなかったこと。やばい。エンタメのど真ん中からは退場しなければならない日が来るぞ。突然、自分が立っている足場の底が抜けるような不安に襲われる。もうだめだ。ライターをやめよう。あととりがいないと聞いていた友人の親御さんが営む愛媛のみかん農家になろうと真剣に妄想していた▼…………▼我ながら何回途方に暮れてるんだと。人生は意外となんとかなるのか。いやいや、とてもそんなことは言えません。たまたまがすぎるし、運がよかっただけ。ちなみに、40歳の時にはまったくわからなかったRADWINPUSの魅力は、いまのほうがわかる気がします。「大団円」なんて大好きです。たぶんあの頃は、知らず知らずのうちに評論家チックになっていたのだと思います。まっとうな評論家ではなくチックのつくエセであり、ましてやインタビュアーでもなく。愚かかつダサいことに不要なプライドが脂肪のように身についてもいて。じゃあ、なぜいまでもライターを続けられているのか。それはある企画が通ったからなのですが、その話はまた別の機会に(唐澤和也)