20230618(土)
人生の評論家

▼実は、先週までの2本の雑文には『青春と借金』という別のタイトル案がありました。青春と借金について書きたいというわけではなくて、ここ1ヶ月ぐらいの気分を反映したもの。ノリというかタイトル先行というやつです▼なぜに『青春と借金』だったのか。「からの週末」というこの原稿は、コロナ禍の始まりの頃に、毎週末に1本書くぞと決めました。でもなにごともたまにはサボり……いや、休息が必要なもの。ライターとしての出身が週刊誌だったので、出自に存在したお休み=合併号システムに倣って「ゴールデンウィーク」「お盆休み」「正月休み」だけは休息にしたのでした▼ところが、5月末からの旅取材タイミングで1週分をサボり……いや、会社でいうと無断欠勤してしまいます。別に誰からもそのことを指摘されたわけではないのですが、どうもいけない。うしろめたい。正確に書くと〝週末〟の一番熱心な読者である母親からは「忙しいの?」と遠回しな指摘的電話がありましたが、なんだかずっと借金をしているような感覚があったのでした▼そんなわけで、『青春と借金』というタイトル案を個人的にはわりと気に入っていたのだけれど、それこそ田舎の母親が心配しそう(母さん、ご安心を。息子に借金はございません)。なので、『青春ってなんだっけ?』というストレートなものにしたのでした▼そんなわけで、ようやく借金返済がかなったこの週末。東京は昨日に続いての快晴です。梅雨の晴れ間は五月晴れってやつです▼そんな青空が窓の外にひろがる絶好の土曜日。サバの水煮缶のトマトソースパスタを作りながらふと思ったのは「人生は論じるもんじゃない。生きるものだ」なんてフレーズ。お酒は飲んでいません。シラフ100%です。なんつってにもほどがある気恥ずかしい言葉ですが、たぶん、『青春ってなんだっけ?②』でもチラリと書いた〝評論家〟について思うところがあったからの言葉▼心底正直に書くと、ライターになってしばらくは評論家という存在が大嫌いでした。コントの劇団の裏方の性根のようなものが抜けていなかったのだと思います。笑いというものにほとんど触れずに思春期をすごした僕は、大人になってから体感した笑いを作る現場で、「蕎麦屋の名前を考えるだけで数時間をかける」という行為に衝撃を受けました。そして本番のライブでその蕎麦屋の名前が、いい感じで(爆笑ではなく)ウケたことも衝撃でした。別に自分はその蕎麦屋の名前を思いついたわけでもなく、ただその現場にいただけ。でも、その後、ライターになって、笑いを評論する人たちがとある芸人に対して「おもしろくない」的な指摘をしていると「じゃあ、やってみろよ!」と言い返したくなる。別にその批評された芸人と一切の関わりがないにしても、です▼でも、ライターになって数年後には評論というものも、結局はおもしろいか否かなんだなと(ようやく!)当たり前のことに気づきます。先輩のおかげでした。その当時、お世話になっていた編集プロダクションに自動車評論家の先輩がいて、その人の原稿が抜群におもしろかったからです▼という前提がありつつ、ちょっと別方向で考えてみると、そもそもそ評論とはなんぞやという、梅雨の晴れ間は五月晴れの青空の下では不似合いな根本的なトピックスもあります。たぶん、プロフェショナルな評論家の方には一家言あるトピックスだと思うのですが、僕はその道のプロではないしそれこそそもそも評論するという資質が低いので、ざっくり分けます。世の中には「評論」と「評論もどき」があるのではと▼さて、「人生は論じるもんじゃない。生きるものだ」という、なんつってにもほどがあるお話についてでした。先週の原稿を書きながらふと、人生の評論家なんて存在するのかな?と思ったのです。自動車評論家はいる。映画もお笑いも音楽もエンタメの分野は全部いる。スポーツも然り。犯罪や戦争評論家だっていそうだ。でも、人生の評論家は、たぶん、いない。人生を伝える表現(伝記とか!)はあると思うのですが、論じるはない。じゃあ、人生の評論もどきはあるのか? これはめちゃめちゃあると思うのです。芸能人の方がその生贄になることが多いのですが、たとえば不倫という出来事があったとして世間から叩かれまくる。他人の人生をみんなが論じる。もどきで。なんだかとっても違和感があります▼「おごらず、人と比べず、面白がって平気に生きればいい」と語ったのは樹木希林さんでした。個人的には人生の評論家もどきにだけはならずに、希林さんの言葉のように生きていきたい。借金返済をはたして気分爽快な週末にそんなことを思ったのでした。よし、飲むぞ、青空の下で(唐澤和也)