20230521(日)
リメンバー鷹番

▼金曜日の朝のことでした。お散歩中の幼稚園児たちが、歩きながらなにやら叫んでいるのです。「えい」「えい」「おー!」。「えい」「えい」「おー!」。「えい」「えい」「おー!」。3度の気合を入れ終わると「ギャハハハ」と爆笑する園児たち。園児なのに朝から気合かよと思いつつ、つられて笑ってしまう僕。地元の学芸大学駅近く、碑文谷公園での出来事でした▼思えば、東京でのひとり暮らしを始めた19歳から学芸大学にたどり着くまで、繰り返してきたのは、そこそこの数の引っ越しです。千歳烏山、中村橋、東中野、東北沢、若林、三軒茶屋、武蔵小山、そして学芸大学その1。現在は学芸大学その2なのですが、過去の引っ越しのなかで街から街への移動ははじめてのこと。なぜに、この街が好きなのか。そんなことをライトに自問自答していて、学芸大学に縁があったことを突然に思い出したのでした▼むしろ、なぜに忘れていたのか。学芸大学は、劇団時代に稽古場を借りていた街だったのです。あれは30年近くも前のこと。作家見習い兼裏方だった僕は、ある日、師匠から無茶ぶりをされます。「東急線沿線都心近くで稽古場を探してほしい。大声を出しても大丈夫なフローリングで、広さは学校の教室ぐらいがいいなぁ。あとね、男女それぞれの更衣室があること。で、家賃は……」。無理っす。心の中で即答する僕。理由は家賃の予算感でした。相場の半額は大袈裟かもですが、かなり無理めな予算だったからです。それでも口から出た言葉は「わかりました」。謎のメンタル、かつ、摩訶不思議な返答。ふつうに考えたら絶対に無理な予算感なのに「わかりました」って。師匠はやさしい人でしたから、無茶ぶりとはいえ、いまの時代でいう〝圧〟があったわけではまったくなく、自分のなかで勝手に(やるしかない!)と気合を入れた記憶があります。碑文谷公園の園児にならうと「えいえいおー!」です。でも、(やっぱ、無理だよなぁ)とも思いながら▼ところが、わりとあっさりと稽古場が見つかります。当時の僕は、東急沿線のさまざまな情報を紹介する番組の構成を担当していました。地域密着型の情報番組を制作するケーブルテレビの仕事です。その流れで東急沿線の学芸大学の不動産屋さんと知り合います。社長はおじいちゃんでした。師匠の無茶ぶりが先か、おじいちゃんに出会ったのが先か。記憶が定かではありませんが、とにかく熱みたいなものだけを頼りにおじいちゃん社長に、内心では「無理っす」なお願いをしたのでした。「すべては言い方だから。言い方ですべてが変わるから」という師匠の言葉だけを心の真ん中に置いて▼そんなわけで、学芸大学に稽古場が持てることになったのですが、元の借主はエアロビ教室かなにかで、フローリングで広くって、更衣室も男女別に完備、家賃も予算内と完璧でした。ただですね、その成果は、劇団の裏方としての僕の交渉術がすぐれていたわけではまったくなくて、そのおじいちゃん社長がいい人だっただけのこと。助けてくれたのだと思います、孫のような年齢の若造とその劇団のメンバーを。なのに、30年前の僕は「俺の手柄!」みたいに調子にのっていた気がして恥ずかしいのですが、そんな安っぽい自己肯定感よりも重要だったのは、その経験そのものでした。<無理かどうかなんてやってみないとわからないぞ>という経験。理屈ではなく実際の生の経験だったのがありがたかった。そういう意味では、師匠の無茶ぶりのおかげの経験だし、そもそも師匠は無茶とは思っていなかったのかもしれません▼その稽古場があったところが、学芸大学の「鷹番」というところでした。30年前も印象的なその地名が気になって調べてみた記憶があるのですが「八代将軍吉宗以降の鷹狩りの地のひとつ」とのこと。なのになぜ、忘れていたのでしょう。我が引っ越し歴の後半を彩る「学芸大学その1」はそんな吉宗以降の鷹狩りの地のひとつ=「鷹番」だったのでした。学芸大学という駅名のくくりだけでなく、かなり印象的な「鷹番」という地名なのに、パソコンのゴミ箱に捨てられたファイルのように、「劇団稽古場」「鷹番」の記憶がまるっと忘れ去られていたのでした▼その1とその2をあわせて6年めの学芸大学の街を歩いていると、なぜか耳に刺さる言葉というものがあります。幼稚園児の「えいえいおー!」とは別の日の朝の10時のこと。商店街の餃子の王将で「何時からですか?」と聞いていた女性のその後のフレーズが気になりました。「11時からです」との店員の返事に、まるで今日で地球が終わるぐらいの落ち込みようで「ウソでしょ」とつぶやいていたり、駅前の警察官ふたりの会話では「そういう時こそめんつゆだよ!」と先輩が後輩にアドバイスしていたり。なぜに朝イチから餃子が食べたかったのだろうとか、先輩のそういう時がどういう時なのかが気になって仕方がないのですが<無理かどうかはやってみないとわからない>を教えてくれたこの街で、最近は無理めなことに挑戦していないかもしれないぞと初心に戻りつつ、園児だって朝から気合を入れてるこの街で「えいえいおー!」でございます(唐澤和也)