20230205(日)
55歳

▼シニシニニ。昭和42年4月22年うまれの55歳。まずまずのおっさんではありますが、老眼には困っていません。むしろ、年を重ねてめっきりと衰えているのが、記憶力です。40歳の頃ならば、1時間ぐらいのインタビューを「復唱せよ」と数時間後に無茶ぶりをされても、ほとんどの内容を覚えていられたのに。でもまぁ、すでになくなったものを嘆くより、いまあるものをブラッシュアップしなさいと安西先生的な恩師ならば言ってくれそうです。記憶関連でいまあるもの、それはメモ力です▼55歳。今週のある夜の僕がメモした言葉。メモには続きがありました。「才能。その昔、ほしくてたまらなかったもの」▼28歳でライターになった夏から、才能にまつわる質問は僕のインタビューのメインテーマでした。大げさにいえば「才能論」というやつです。芸人、漫画家、ミュージシャン、アーティスト、俳優、映画監督、スポーツ選手。週刊誌をメインに仕事をしてきた僕は、あらゆるジャンルの才人に話を聞けるチャンスに恵まれてきました。その頃から「これぞ!」という才人中の才人=天才にぶつけた質問こそが「他者との比較ではなく、自分の中で一番誇れる才能とはなにか?」。ある天才ミュージシャンは「17歳の頃の感性をいまだに信じていること」と語り、ある天才芸人は「サービス精神」と教えてくれました。はじめてその質問をしたのが2000年のことでしたから33歳という計算になります。なんだったら、24時間麻雀をぶち続けても平気だった若かりし時代。あの頃は、まっすぐな興味で才能や天才の自己分析を聞いていたと思っていましたが、裏側もあったのだなといまならばわかります。それは、コンプレックスです▼以前にも書きましたが、28歳の夏までの僕は劇団の裏方でした。コントを武器とする劇団でしたから、ざっくりと言えば笑いの劇団です。裏方と記したものの、本当は放送作家になれたならよかった。劇団にとっても、僕にとっても。師匠は放送作家でもありましたし、ゼロの状態からその世界を目指すよりもかなり有利な環境でした。実際、業界トップクラスの放送作家の方に何度か会える機会も作ってもらえていたのです。何度かの面接のようなもので「こいつ、おもしろいかもな」ぐらいのハードルの低さで小指一本でも引っかかってもらえればプロになれた。けれど、僕には肝心の才能がありませんでした▼笑いの才能。それは残酷なまでにはっきりと存在すると思います。100メートルを走って10秒を切るように、プロ野球の投手が160キロを投じるように、はっきりと。もちろん、努力を否定するつもりはありません。昭和のスポ根漫画のような尋常ならざる努力を重ねたからこそ、160キロの直球を投げられるようになった人がいるかもしれない。同じ理屈で、尋常ならざる努力でバラエティ番組の放送作家になった人もいる可能性はある。けれど、そんな「尋常ならざる努力」をできるのもまた、才能だと思うのです▼そんなわけで、当時は気づけなかったけど「他者との比較ではなく、自分の中で一番誇れる才能とはなにか?」という質問の裏側にあったものが、コンプレックスでした。正確にいうと元コンプレックス、元がつきます。なんだか解散したお笑いコンビの名前のようでややこしいですが、もしも僕が笑いに対してコンプレックスがあるままライターになっていたなら、放送作家やその延長線上の芸人に対して複雑な思いを抱いていたはずです。でも、きれいさっぱりと尊敬の念しかない。たしかに、放送作家を目指していた時期にはコンプレックスがあって、その頃こそが冒頭の「その昔、ほしくてたまらなかったもの」=才能な時期でした。でも、劇団所属の5年間で自分なりに努力ってやつをとことん重ねてそれでもプロにはなれなかった。つまり、徹底的にやったから、決定的な才能のなさに気づけた。全力で夢破れし者は、羨望や嫉妬のかわりに尊敬という二文字の念を抱くのだと思います▼あの夏から27年。55歳冬の僕は、自己の才能のあるなしなんてどうでもいいやと感じています。もちろん、33歳の頃と変わらず、世の表現者たちの才能には興味がありますし、こんな小さな島国に続々と現れている天才ラッパーたちには「他者との比較ではなく、自分の中で一番誇れる才能とはなにか?」と聞いてみたい。それでも自分自身の才能うんぬんはどうでもよくて、もっと言えば才能がなかろうが、やりたいことがある。じゃあ、どうすれば実現できるかを考えて、天才的ひらめきに憧れても思い浮かばないもんはしょうがないし、考えて考えて考えて考え続けるしかないと考えています▼もしかすると、30代も40代もおんなじだったのかもしれません。そりゃあ、若い時期はそれなりにとがってもいましたから「ライターの誰々には負けねぇ!」などと調子に乗ってはいた。負けず嫌いなんてもんじゃなく、勝ち負けの勝ちにこだわる、勝ちたがりの極み。でも、自分に才能があるかどうかに対してはほぼ無自覚で、そんなことよりも「やりたいことがある」ほうが重要でした。やりたい、どうすりゃできる、できた、できない、なぜできた? なぜできない? 次は? これやりたい、あれやりたい、できた、できない、なぜ?……で、転がってきたライター人生だったのかもしれません。回転体は転ばない。36歳の頃の僕が一番やりたかった書籍『負け犬伝説』で書いた一節のように▼とはいえ、です。ケジメとしてあの質問を自分にも投げかけてみます。「他者との比較ではなく、自分の中で誇れる一番の才能とはなにか?」。うわぁ、なんて難しい質問なのでしょう! 天才たちはよくぞ瞬間的にあんな名言を口にできたもんです。凡人である僕が数日間をかけてようやくたどりついた答えはこれでした。「28歳の夏に書くことを選んだこと」。スポーツや表現にはそのジャンルに選ばれたとしか思えない天才が存在しますよね。天才じゃない僕は書くことに選ばれてはいない。でも、いま思えば第二の青春ともいえる劇団が解散した28歳の夏に、一切の表現をあきらめて田舎に帰ったってよかった。両親はやさしい人たちでしたし、そういう人生の可能性だってあった。でも、僕は選びました。才能があるかどうかなんてどうでもよくて、ただ書いてみたくて。28歳のあの夏の選択は、ちょっぴり褒めてあげたいと55歳のいま感じた週末です(唐澤和也)