20221230(金)
旅とさよならと風

▼腰を治したいからの「治」、韓国語を覚えたくての「習」、2022年をフルスイングしたからいったんリセットしたいという意味もあるのか空っぽの「空」。この年末に会えた人たちに、来年の目標を漢字ひと文字で教えてもらいまくったのですが、今年も誰ひとりかぶらずバラバラなのがおもしろかったです▼振り返るに、僕の2022年のひと文字は「旅」でした。数年前から年賀状に漢字ひと文字となぜにそれなのかをサクッと短文にまとめているのですが、「旅」にした理由はなかなかにシリアスなものでした。コロナ禍での約2年(当時)に、ラッパーだったら一番長い指を立てるほどにうんざりで、旅、させてよと。PCR検査も受けるしマスクもちゃんとしますから、と。それほどまでに旅したい自分がちょっと意外でもあったから、無理矢理にでもコロナのメリットを探すのなら旅する仕事がかくも必要だと気づけたことだったのかもしれない▼願うことは叶うこと。劇団時代からの師匠のこのパンチラインどおりに、願ってみるもんです、本当に。いやはや、2022年は旅づくしとさえいえる1年でした。春、桜を探して千葉県の牧場へ行き、サンライズを求めて栃木県の気球にのり、24時間の船旅のあげくの小笠原諸島・父島と母島へ。〝一生忘れない〟だなんてベタすぎて使ったことのない語彙だけれど、父島と母島は一生忘れられない旅となりました。夏、標高1800メートルのキャンプ場へ撮影旅に行き、秋も長野県のふたつのキャンプ場へと旅ができたのでした。冬だってそう。おもちをめぐる冒険の岩手県一関は、趣のある雪まで降ってくれる始末。2021年末に願った「旅」は、2022年を彩る言葉となったのでした▼そんこんなで、2022年のラスト週末。毎年の一年の終わりに、鬱陶しがられながらも友人知人に聞きまくる漢字ひと文字ハンターとして、みなに選ばれる漢字にはふたつの傾向があることに気づきました。それは、具体的か抽象的かということ。具体的なものの一番わかりやすかったのは、うちの山岡が3年前の年末に叫んだ「金」。そんな具体的なパワーワードをいちおうはお金をお支払いしている立場の俺に言うかねとは思ったものの、周囲の人たちは爆笑していたから、まいっかでした。反対に、後者の抽象的なものを自分の過去ひと文字から探すと「笑」。そんな言葉を選ぶぐらいだから(この一年はあんまし笑ってなかったなぁ)などと自省した年末があったんでしょうかね。自分のことなのにその経緯は覚えてないのですが、だからこそ「笑」を翌年の目標にすることは理解できるけど、いかんせん抽象的ではある▼どちらがいい悪いではないけれど、「旅」の実現インパクトが大きかったので、来年のひと文字は具体的な漢字でいこうと思っていました。実際、いくつか候補を選んだりもして。なのに、とある忘年会の席で壁に書かれた文字を見た瞬間に即変更したのでした。それが「風」。たぶんかなりの書の達人が記した、掛け軸的なものに書かれた「風」。それは、ロジカルではなくフィジカルで選んだ言葉であり、抽象的で、感覚的で、(さて、風のように生きる一年とはこれいかに?)との問いは続いておりますが、でもなんだかとっても気に入っていたりもするのでした▼そんな漢字ひと文字のこととは別に、大掃除中にふと2022年を振り返ってびっくりしたのは積ん読のあまりの多さでした。自宅に30冊、事務所にも同量の気になる書物たちが、それぞれ1ページも読まれることなく積まれてるという悲劇、いや、惨劇。タイトルを再読したいまでも気になるぐらいだから、買った衝動は理解できるけど、60冊はあんまりです。さすがに自分で自分が嫌になり、これは2023年を待ってらんない、今日から、いやさ、いまから読みはじめるぞと『村上春樹 雑文集』という文庫をめくったのです。ちなみに、同書は村上春樹さんが書いたありとあらゆる文章(たとえば結婚式の挨拶文とか)が詰まっています。すると、読み出してすぐに、こんな一文が踊っているじゃありませんか。「物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる」。なんという偶然。おそらくは2022年最後を飾るであろうパンチライン。!と心にフラグが立った瞬間でした。やっぱり、来年は「風」でいこう。ってことは、小説を書くとかのストレートな意味ではなくて「物語」でいけたらいいなぁ▼さてさて、2023年は年賀状が書けない年末でした。父が旅立ったからです。村上さんの文章を借りるのなら、父を揺らすものはたしかに物語でした。生前の父がお世話になった皆さま、ありがとうございました(唐澤和也)