20221107(月)
なぜ太田さんは炎上するのか?

▼『芸人人語』がおもしろい。爆笑問題の太田さんが「一冊の本」という雑誌で月一連載しているものをまとめたエッセイ集。昨年の第一弾に続きこの秋に出た第二弾も、それはもうおもしろすぎて、僕は仕事を失うことになりそうだ▼そのおもしろさのひとつの秘密は、文字量とのベストマッチングだと思う。なにをもって〝普通〟とするのか実は難しいのだけれど、少なくとも週刊誌などに掲載される普通のコラムに比べるのならば『芸人人語』の文字量は圧倒的に多い。つまり、読みものとしてのストロークが長い。おそらく意図的にそうしていると思うけれど、文字量にゆとりがあるので寄り道ができる。寄り道どころか、なんだったら、脱線できる。そこがいい。文章なのにテレビの中の人の時に近いというか、太田光節が全開となる。多目的なあの方へのある種の応援歌も、オリンピックと運動会の違いについて問う小学生への太田さんなりの回答も、寄り道・脱線するからこそ読み手の心を打つ▼ところで、ではなぜ『芸人人語』がおもしろいからといって僕が仕事を失うのか。これは業界の裏側を暴露、といった話ではまったくなくて、雑誌でも書籍でも「構成・誰々」とライターのクレジットが入っているものは、筆者が喋って(構成担当の)誰々が書いた文章が掲載されるものだ。いわゆる語り下ろしというやつで、一人称の喋り言葉を基本としながらも、書き言葉を効果的に混ぜるのがライターの腕の見せどころだったりする。場合によっては、書き言葉のみで構成することもある。筆者が話してくれたことをそのまま書き起こしても、たとえそれが取材現場では大いに盛り上がったのだとしても、読む文章としては成立しづらいからだ。喋り言葉の魅力と書き言葉のよさは違う▼太田さんの書籍のうちのいくつかの「誰々」は僕が担当させてもらっていた。最近では2018年に書籍で、2020年に新書として発行された『違和感』がそう。アマゾンのレビューなどを読むと『違和感』に対して「文章がうまい」的な賛辞を送ってくれる人がいてそれはそれでとてもうれしかったのだけれど、ちょっぴり違和感が残った。先述の喋り言葉&書き言葉か、書き言葉オンリーかの構成パターンでいえば『違和感』は前者が狙いだった。太田さんは書く人でもあるから、後者の書き言葉オンリーというのは難しかった。難しいというより僕には無理だった。だから、構成担当者として、語り下ろし調全開で、読者に問いかけるような文章を意図的に盛り込んだり「っていうね(笑)」との喋り言葉の語尾をチョイスして語りおろし感を盛り込んだつもりだった。でも、すべての読者には伝わらないのかなぁとの違和感が残ったのだった。余談だけれど「〝っていうね。〟という語尾が多すぎて嫌だ」的な読者からのダメ出しもあって、それはこちらの狙いとは違うけれども真っ当な指摘であり(なるほど!)と自省させられた▼けれど、『芸人人語』は純度100%の書き手・太田光が堪能できる書籍。構成・誰々は誰ひとりとして存在しない。だから、私は仕事をひとつ失うことになるだろうというわけ。だって、あれだけの才人が書き下ろしをした日には、語り下ろしなんて、歯が立つわけもないのだから▼ただですね、『芸人人語』のおもしろさによって仕事を失うかもしれないことって、実は、落胆とかの類では一切なかったりする。むしろ、逆。インタビューが一番好きなライターとしては、(じゃあ、どうする?)とスイッチが入ったりもしている。なんて書くとだいぶカッコよすぎるので、もっとちゃんと記すと、そもそも僕にインタビューのおもしろさを体感させてくれたのは、爆笑問題・太田光その人だった▼太田さんの書籍の構成をはじめて担当させてもらった『カラス』(のちに、『爆笑問題太田光自伝』と改題)は、Q&A形式の読みものなのだけれど、そのスタイルに決まったのは太田さんのひと言だった。本の内容に関しては、版元の小学館の編集担当者や、太田さんの事務所社長である光代さんと何度も相談したけれど、文章のスタイルを決めたのは太田さんだった。つまり、『違和感』でこだわった〝喋り言葉中心、書き言葉少々〟という構成とは違い、Q&A形式ならば喋り言葉そのままの掲載でOKということ。机の上で質問を考えて、現場でインタビューをして、机の上で原稿にまとめる。それがおもしろかった。もちろん、Q&Aにもその形式ならではの難しさがあるけれど、そんなことより、僕にインタビューそのもののおもしろさを教えてくれたのは太田さんだった▼『芸人人語』に限らず、すぐれた著者が文字で綴る書籍はもちろんおもしろい。僕も読者として大好きだ。でも、インタビューで問うたからこそ答えてもらえる言葉がある、とも思う。振り返れば、『カラス』では何百個という質問を考え吟味し、現場で問いかけると、太田さんはそのすべての質問に答えてくれたのだった。すでに多忙を極めていたのにもかかわらず。用意した質問ではなく、雑談から聞けたエピソードも多かった。『カラス』はのちに改題されるように『爆笑問題太田光自伝』であり、自伝という形式はインタビューとの相性がよかったのだろう。とはいえ、当時の読者レビューのなかにはQ&A形式であるが故に「太田光の相方はやっぱりあの男じゃないと」と田中さんではない僕のやりとりを非とする声もあった。当時は(そりゃそうだろ!でもこの本はそういうことじゃないだろ!)と反論したい気持ちでいっぱいだったけれど、一理ある反対意見だなぁといまならば思えることがありがたい。そうなのだ。表現する以上は賛否両論がついてまわることを体感させてくれたのもまた、太田さんだった▼じゃあ、いまの太田さんに一番聞いてみたいことはなんだろう。やっぱり「なぜ、太田さんはかくも炎上するのだろう?」という問いに対する本人の自覚っぷりだ。「わかんない」と答える気がするけれど、聞きたいのはその先。たとえば、『芸人人語』の魅力のひとつがそのストロークの長さだとするのなら、テレビのストロークで思うところはありますか?……なーんて、こちらの仮定と問いを重ねてみたい。インタビューだからこそのその先がある気がする(唐澤和也)