20220903(土)
コツコツが勝つコツ
▼柊人という沖縄で活動するラッパーがアツい。風に乗るような、波にたゆたうような、独特で心地よいフローからすれば、作風的にはアツいというよりもクールなのかもしれないけれど、リリックの「いまにみとけ!」感がアツい。「コツコツが勝つコツ」というパンチラインを含む「好きなこと」はPVの世界観も素敵きわまりなく、ラスト近くには、私が勝手に敬愛している、沖縄・石垣島出身のラッパー・CHOUJIの姿も。沖縄かぁ。また、行ってみたい。一度だけ後輩が移住している時に来島したが楽しかったし、寂しかった。後輩がガイドしてくれた時はずっと楽しかったし、そうそう、小さなライブハウスでドラゴンアッシュのアクトも見たりできたのだった。寂しかったのは、後輩が気を使って作ってくれたひとりの時間。せっかくなので、ひとりを堪能しようと延々と散歩していた時に、道路に面した軒先で三線を弾きながら歌うおばあがよくって、でも、無性に寂しくなったのを覚えている▼実はもし沖縄に仕事で行くならの企画タイトルだけは考えてもいる。「沖縄ラップソディ」。ダジャレ、かつ、出オチ感がはんぱないけれど、タイトルのフレーズとしては悪くないと思うのですが、どうでしょう?▼「コツコツが勝つコツ」。このパンチラインは、おそらく今後の人生の座右の銘となる気がする。実際に、まさにいま、超絶なる繁忙期をなんとかしのげているのは「コツコツが勝つコツ」と心の中でつぶやき、煮詰まったら、柊人の「好きなこと」のPVをリピートしているからだ。大人が口にしてはいけないとされる「うぎゃー!」との叫びの代わりに「コツコツが勝つコツ」とつぶやく日々を重ねている▼あれは28歳の頃だったか。劇団が解散して、ライターになってしばらくが経った頃、師匠から「唐澤は毎年の上昇角度が2度だなぁ」と笑われたことがあった。上昇角度が45度なら急激な進歩だけれど、2度はかなりのコツコツっぷり。師匠もコツコツというニュアンスで言ったのだけれど、それは蔑みの笑いなどでは決してなく、ほんわかと励ましてくれるようなやさしい笑いだった。うれしかった。ものすごく報われた気がした。その後、歳を重ねて(あれって、一般的な意味ではほめ言葉じゃないのに、なんであんなにうれしかったんだろう?)と思うことが時折あったけれど、柊人の「好きなこと」のおかげで腑に落ちた。コツコツが勝つコツ。20代の頃の私は、柊人のようには言語化できていなかったけれど、そのような言葉の欠片をかき集めながら、コツコツと日々を重ねていた▼仮に「コツコツが勝つコツ」というパンチラインを10代の時に聞いてたらどう思ったんだろう。たぶん、なにも刺さらなかった気がする。実際に、10代の頃にもっとも感銘を受けたパンチラインは「大きなことをやろうじゃないか」という文庫本のコピーだったりもするし。ま、若さなんてそんなもんで、コツコツの侮れなさや、その意味する深いところなんてわかるはずもないし、わからなくていい▼そう考えると、20代ってすごい。10代とは違う青き輝きをはらんでいる季節なのかもしれない。20代前半からの劇団時代も、28歳という後半からのライター時代も、10代と同じようながむしゃらさもあったけれど、絶望にぶち当たるのがティーンエイジャーとの違いだった。大学時代の友人で唯一ドロップアウトして頑張っていたのに「やっぱり、地元に帰るわ」と笑ったかわちょ。せっかく自分の店を出したのに、難病にかかった親のために店を畳んだ西村くん。金がなくて、エアコンもなくて、ガリガリくんをかじってしのいだ練馬の夏。寒くて、寒くて、自動販売機で買った缶コヒーのぬくもりが唯一の救いだった工事現場GM(ガードマン)の冬。まったくもってキラキラはしていないけれど、世間なのか、社会なのか、ぶつかるものが分厚くて、へこまされることが多かったあの頃。だからこそ、ごくごく稀に経験する「そうそうこれ!」と、そのために生きてるかもしれないと勘違いを含めて感じられる瞬間の快感値もまたえげつなかった。10代のまっすぐさだけではない、20代のこじらせた感情は、少なくともものを書く上ではかなり大きな体験だった▼「コツコツが勝つコツ」。やっぱり、パンチラインだ。言いたくなる。説教くさくないのもいい。30代、40代、50代と年齢によって、いろいろなことにぶつかったり、考えさせられたりしたけれど、その都度考えたいてのは、「でも、やりたいし、やるしかない」であった。それはたぶん、韻は踏んでいないけれど「コツコツが勝つコツ」とどこかで通じているはず。そしてまさにいまオブいま。20代の後輩ライターがコツコツと書いてくれたある企画の原稿は、ワードという書類フォーマットで157ページもありやがった。「うぎゃー」と叫びたくなったけれど、読むぞ、一言一句。コツコツが勝つコツと心のなかでつぶやきながら(唐澤和也)