20220826(金)
ドロップアウトのえらいひと

▼「あそこは昔ね、本当は八百屋さんだったんだよ」とお父さんが息子に語りかけていた。学芸大学の路地裏で。この場合の〝本当は〟って実は、なかなかに深いのかもしれない▼さてところで。読者感想文ってやつを一度も書いた記憶がない。そんなバカな、ですかね? 昭和42年生まれの小学・中学・高校生って、それがマストではなかったのか? いやいやそんなバカな、だよなぁ。書いたのだろうけれど、一切の記憶がない。では、もしもいま夏休みの宿題よろしく、読書感想文を書くとしたら。参考になるのは、三谷幸喜さんがなにかのインタビューで口にしていた言葉。いわく、読書感想文は内容をまとめるのではなく、その本を読んで自分のなかのなにが変わったのかを記せ的なことを言っていたという記憶。なるほど、なるほど。そのアプローチで1冊を選ぶのなら、断然『ドロップアプトのえらいひと』という森永博志さんの人物インタビュー集だ▼とはいえ、この本を読んだから自分のなかのなにかが変わって、ドロップアウトしたわけじゃない。というか、ドロップアウトしたと胸を張るほどにはたいしたドロップアウトをしていない。世がバブルに沸いていたおかげで就職活動もすいすいと楽勝だったのに、ただ単に仕事があわなくて3ヶ月で会社をやめるという、プチで、甘ったれな、ドロップアウターだった私。会社をやめた瞬間なんて、とくにやりたいこともなかった。ライターになったのは完全なる後付けだった▼会社をやめちゃう→やめたはいいが食えない→大学時代にお世話になったバーのバイトに復活→店長が超いい人でバーテンになる気があるなら教える。でもお前はそうじゃないだろ?やりたいことないの?→その時、はじめて仕事としてなにがしたいのか考える→あ、文章を書くことは好きかも?→つまり、後付けだった▼ある意味では、『ドロップアプトのえらいひと』も後付けの読書体験だったのかもしれない。本書を読んでドロップアウトをしたわけじゃないけれど、本書を読んだことによって俺もドロップアウトしてよかったかもと思えたということ。最近の言葉でいうと、自己肯定感というやつをプレゼントしてもらえたのかもしれない▼ただし、名作というやつは、やっぱりタイトルもよくできていて「ドロップアウト」の「えらいひと」という反語の妙。言葉遊びとしては、「エリート街道」の「ダメなひと」の逆ってことだもんなぁ。そういう意味では、本書のおかげで一瞬は自己肯定感をプレゼントしてもらえたけど(自分はえらいひとにはなれてない)(だから、がんばろう)という、たとえば、なにかしらの嫌なことがあってもRHYMESTERの曲を聴いて(うん、がんばろう)とちょっとだけでも前を向けるような〝効能〟のある一冊だった▼ところが、話はこれで終わらない。先日の旅仕事で行った小笠原諸島。原稿としては大きく取り上げさしてはもらわなかったのだけれど、不思議な出会いがあった▼人生初SUPを経験したいなぁと思う→旅の相方が気になっていたサーフショップにボードを借りに行く→マシューさんという店主がよくしてくれて人生初SUPを堪能→ボード返却時に立ち話→ふとレジを見ると『ドロップアウトのえらいひと〜島に渡る〜』という書籍が!→なんじゃこりゃ!→マシューさんの義理のお父さんが紹介されているという▼もちろん、その場で購入したのだけれど、正編・続編に続くシリーズ第3弾であると初めて知った。23区の東京に戻って(小笠原も東京都だ)、一気に読んだ。またしても傑作だった。またしても、(うん、俺もがんばろう)という効能のある一冊だった▼エンタメを中心にインタビュー仕事を重ねたある時に、いつまでもこの仕事のど真ん中にはいられないと感じたことがあった。その時、自分では直感的に(でも、インタビューは好きだから、これからはエンタメの有名人ではなく、一般の人の話を聞けたらなぁ)と思ったつもりでいた。もちろん、直感もあったのだろうけれど、もし、私に影響を与えてくれたものがあるとしたら、『ドロップアプトのえらいひと』で間違いない。正編も第3弾も、登場するのはいわゆる有名人ではなかった。でも、だからこそ、登場人物たちの効能ありなインタビューに胸を揺さぶられたのだから(唐澤和也)