やまたび 香港旅行編
その二 中年男女と一〇〇万ドルの夜景
この旅の最大の目的は、スターフェリーに乗ることだった。紀行小説『深夜特急』のなかで沢木耕太郎氏は、「十セントの料金を払い、入口のアイスクリーム屋で五十セントのソフト・アイスクリームを買って船に乗る」ことを「六十セントの豪華な航海」と述べている。いったいどんな船なのだろう? 香港の人々と沢木氏に愛されるその船に、私はぜひ乗ってみたかった。
『深夜特急』に大ハマりしたのは二〇一七年の年末だった。もっぱら寝正月でやることがないので、実家に帰省した時の暇つぶしにでもなればと思って文庫を持っていった。気がついたら香港・マカオ編を夢中になって読んでいて、それまで海外なんて行ったこともなかったのに、すぐにでも行きたくなってしまった。
そして台湾を経て、念願の香港である。
最寄りの駅、尖沙咀で下りてフェリー乗り場まで歩く。ホステルのまわりは庶民的な街並みでガヤガヤとしていたけれど、こちらは高級ブランドショップや超一流ホテルが立ち並ぶ海辺のエリアで、街の様子が全然違う。そしてなぜか高級ブランドショップの大きな窓に、ガムテープが×の形で貼られている。こういうのが流行りなのか? わからないまま進む(この謎は翌日解けるのだか︙︙)。
歩いていると、右手側に大きなスフィンクスのような形の建物が見えてきた。よくよく目を凝らすと、白亜の外壁に黒文字で「THE PENISULA」と書かれている。これがあの、『深夜特急』にも登場するペニンシュラホテルか! 玄関前には、高そうな車が停まっていた。私はといえば、ぺらぺらのTシャツにジーパンという出で立ち。中に入る勇気はとてもじゃないがなかった。せめてもの記念にと写真を撮る。
フェリー乗り場に着くと、一気に視界が開けて、一〇〇万ドルの夜景が姿を現した。
わぁああああ!!!と、この旅で一番のハイテンションに。対岸に立つ高層ビル郡のネオンはくるくると色を変え、写鏡のように水面に反射している。その間を縫うように、スターフェリーが黒い海を行き来していた。
フェリー乗り場近くの広場には大きな橋もかかっていて、たくさんの人々がベンチに座って夜景を眺めたり、おしゃべりしたり、写真を撮ったりしている。どうやら、市民にとってはいこいの場、観光客には観光スポットになっているらしい。
途中、おっちゃんとおばちゃんが歌を歌っているのを見かけた。おそらく中国の歌だろう。機材まで用意していて、けっこう遠くにまで音が響く。東京でも夢を追う若者が駅前で歌っている姿はよく目にするが、公共の場所でおっちゃんとおばちゃんがデュエットする姿は一度も見たことがない。香港ではよくある光景なのだろうか? 立ち止まって聞いている人はほとんどいなかったし、特別に上手ということもなかったけれど、当人たちはなんだか楽しそうである。
香港島と九龍城半島を結ぶスターフェリーの歴史は古く、一八八八年に登場して以来、現在でも使われていている。ちなみ香港島へは地下鉄でも行くことができる。
フェリーは一階(下層)と二階(上層)にわかれていて、若干二階のほうが運賃は高い。といっても四ドルだけど。
乗船すると、年季の入ったフェリーは香港島の中環へ向かった。ゆれる波にビルのネオンがきらきらと反射してとてもきれいだ。船内はレトロな雰囲気で、ベンチにまで星のデザインがほどこされている。さすがスターフェリー。二十一時と時間が遅かったためか人はまばらで、船内はとても静かだった。六分ほどであっという間に岸についた。
さて、上陸したはいいが時間も遅く、人もいないし、辺りは暗い。というかスターフェリーに乗ったあとのことを考えていなかった。うん、帰ろう。香港島の滞在時間は十分くらいだった。
行きは二階だったから帰りは一階に乗船する。今度は波しぶきが飛んできそうなほど海が近い。二階は優雅な感じだったけど、一階は冒険感が増してより楽しい。ちなみにこちらは三ドルで乗ることができる。私はスターフェリーを満喫して、ホステルに戻った。
(文/山岡ひかる/2020.9.14)