からの週末20220712(火)
もしも私がラッパーだったら

▼もしも私がラッパーだったら、いまこの時、なにを謳うのだろうか。先週末に起こってしまった事件のことか。いまだに続くあの戦争をテーマとするのか、はたまた3年目の災禍に対して自己主張するのか。たぶん、その手の大きなこととは真逆の小さなことを謳うのだと思う。というか、大きなことを謳えたならと憧れるけれど、ポケットサイズのことしか思いつかない気がする▼佐々井さん(仮名)はクリーニング店のプロフェッショナルだ。私の地元にはいくつかのクリーニング店があって、メインで使っているのはHというお店。季節保管をしてくれる便利さが、メインのメインたる理由だ。となると佐々井さんもHのスタッフであるのが「007シリーズの名車はJボンドのせいでたいていボロボロになる」が如く自然なお話の流れだが、そうはいかない。お気に入りの服をお願いしたい時だけ頼むという、量だけでみれば2番手のお店のスタッフだ。別にHに全部出しちゃえばいいのに、「これぞ!」というモノだけは佐々井さんに頼みたくなるのだけれど、立場を逆にして店を主語とするのなら、お客としての私の存在は下の下。だって、春夏に数回、秋冬に数回程度の頻度の低い客なのだから。でも、佐々井さんはプロフェッショナルなので下の下扱いなど決してしない。というよりも、誰に対してもふつうな気がする。実際にクリーニングをお願いするのは「これぞ!」の時だけなのだが、駅に行く道すがら横目に見える佐々井さんの接客は、いつも穏やかな笑顔と、時には本当の笑い声も聞こえてきて、この街のクリーニングを欲する多くの人々に愛されているのがチラ見でわかる。別の言葉を選ぶと、佐々井さんファンがたくさんいる▼もちろん、クリーニングに関する知識も豊富だ。冬のダウンジャケットのこと。夏の綿シャツのこと。最近では、小笠原旅でおろした新品の防水バッグの処し方について教えてもらった。小ぶりのバッグで使い勝手がよくて一発で気に入ったのだけれど、アウトドアでの使用なので、それはもう古い時代の罰ゲームで墨を顔に塗られたようにわかりやすく汚れた。色は薄いグレー。故に汚れも目立つといえば目立つが、完全仕事ユースなので気にならないといえばならない。さて、どうしたもんか。こんな時こそ佐々井さんだ。「これ、クリーニングで落ちますかね?」と聞いてみた。あまり落ちないかもとの答えだったら、出さなくてもいっかぐらいに思っていた。夏の綿シャツも2枚持ってきていて、こちらは絶対にお願いしようと思っていたから手ぶらではないし失礼でもないだろう▼佐々井さんは防水バッグの洗濯タグを確認すると、こちらの予想の斜め上をいく回答をくれたのだった。「ウタマロという固形石鹸を買ってみてください。いらない歯ブラシを用意して、ウタマロをつけてゴシゴシと。あとは洗濯機で脱水すれば大丈夫」。ウソでしょ。この人、お店が儲からないことを教えてくれちゃったよと、こちらが若干の驚きの表情を浮かべていると、佐々井さんは「ウタマロで手洗いする時間があればね」と笑った▼私は佐々井さんのようになりたい。以前から漠然とそう思っていたが、せっかくなので、もうちょっと具体的に佐々井さんのプロフェッショナルとしての魅力に迫ってみたい。クリーニングの知識か? それもある。でも、それだけじゃない。時に損得をこえることがあるから? うん、それがかなり大きい。信頼できるのだ。実は今回の防水バッグのことだけではなく、コロナ初期の頃にも似たようなことがあった▼なぜそんな話になったのかの前段は忘れてしまったけれど、おそらく「コロナだからこそ得られるなにかもあると思うんすよね」などと私がカッコつけたのだろう。佐々井さんは「実は、お店の経営方針としてお客さんに営業電話をかけるように言われていたんです」とコロナつながりなことを教えてくれた。佐々井さんは経営者ではないようだ。「でも私は絶対に嫌だったんです。自分が逆の立場だったら、こんな時に営業電話されても困っちゃうだけだから」と佐々井さんは続けた▼たぶん、佐々井さんのイズムは、そろばん的経営メソッドから言えば間違っている。でも、そういう人だからこそ佐々井さんのファンがいるのだろうし、私もそのひとりだ。ウタマロで洗った防水バッグは、予想をこえる汚れの落ちっぷりで、愛おしいほどにきれいになり、この手の仕事で使う定番アイテム入りが確定した▼以上、ラッパーではない私が、韻は踏めないけれど謳うように書いてみたポケットサイズの原稿でした。きっかけは、大ファンである爆笑問題の太田さんが向田邦子さんを評して「小さなものをなめるな。毎日の生活をなめるな」などと綴っていたことに感銘を受け、しかもその太田さんが一度は炎上するほどに批判された選挙特番のメインインタビュアー(あれはインタビューだ)をこの週末に再び任されていて、前回の批判を逆手にとるがごとく大きなことを成し遂げていたことに二度目の感銘を受けたからだったのでした(唐澤和也)