からの週末20220703(日)
頼朝落馬とチ。完結

▼リアル浦島太郎状態とはこのことだった。6月17日の小笠原諸島旅出発の頃は、関東地方はまだ梅雨の時期で朝夕は肌寒かったりもしていた。こりゃあ同じ東京都だけれども最高気温30度で、もはや南国な小笠原諸島から戻ってきたのなら、ジメジメしていて嫌だろうなぁと思ったものだった。ところが、12日ぶりの23区のほうの東京はいつの間にか梅雨はあけているし、気温だって30度どころか40度に迫ろうかという異常気象。日差しはきつかったけれど、木陰などに隠れちゃえば風が気持ちよかった小笠原諸島が懐かしいほどで、まるで誰も得しない罰ゲームのような猛暑だった▼さらに、リアル浦島だったのが、『鎌倉殿の13人』が2話分も進んでいたということ。いや、そりゃ2週間近くも旅していたのだから当たり前の話なんだけれど、23区のほうの都内に戻り、南国気分の抜けぬ心と体に鞭打って仕事の帳尻をあわせ、どうしても見たかったそれを2週連続で鑑賞した時の衝撃といったら。ろれつがまわらなくなり落馬してしまう頼朝。思わず「佐殿!」とテレビの前で叫ぶ私。ちなみに、佐殿と書いて「すけどの」と読むのですが、歴史好きの人ならば、謎が多いらしい佐殿死亡説のひとつが「落馬」だと知っているはず。ところが私は、『鎌倉殿の13人』が好きすぎて、事前知識をなるべく入れないように楽しみにしていたので落馬説も知らず、アゴどころが全身の関節が外れたんじゃないかというほどの衝撃だった▼そんなRU(リアル浦島)状態のなかでも、『鎌倉殿の13人』の展開と並ぶほどの今週のMRU(リアル浦島第1位)は、傑作漫画『チ。』の完結巻であるコミックス8巻をコンビニで目にした瞬間だった。その夜も、仕事の帳尻合わせは続いていたけれど(読まねば!)と心の中で大声で誓い、実際、その夜のうちに読んだ。睡眠時間を削るという帳尻合わせをしつつ▼いつの頃からか、こと音楽だけにとどまらず「ロックだね」という言葉を耳にするようになったと思う。「3ヶ月で会社辞めちゃいました」「ロックだね!」「でも、そのおかげでちっちゃいベンツが買えるぐらいの借金作っちゃいましたけど」「ロックだね!」。私自身は熱烈なるロックファンではなかったけれど、ロックを愛する諸先輩たちから、ふつうの人生ではダメとされることを自虐的にしゃべった時ほど「ロックだね!」と褒められてきた気がする。おそらくそれは、ロックを愛するミュージシャンやリスナーの先人たちが積み重ねてきたひとつの成果というやつで、ロックが音楽という一ジャンルを超えてライフスタイルとなった故の言葉。ならば、同じ音楽であるヒップホップはどうなんだろう。残念ながら、いまはまだ少なくとも「ロックだね!」ほどには「ヒップホップだね!」という言葉は市民権を得ていない気がする。それとも、おっさんである私の耳に届かないだけで、若者たちの間ではすでに音楽を超えているのだろうか▼そんなわけで、『チ。』は「ヒップホップだね!」だった。とはいえ、『チ。』は、井上三太氏の傑作漫画『TOKYO TORIBE』のようにヒップホップ的登場人物と世界観を描いているわけでは一切ない。時は15世紀、舞台は西洋。天動説に異を唱える者は異教徒として処刑さえされていた時代の物語。でもだからこそ、「ロックだね!」の代わりに「ヒップホップだね!」と推したくなる独特の魅力がある▼まず、圧倒的にパンチラインが多い。完結を機に1巻から再読したこのタイミングで各巻に付箋を貼ってみたらえらいことになってしまった。いくつか抜粋してみる。「ソクラテス曰く「誰も死を味わってないのに誰もが最大の悪であるかのように決めつける」「エピクロス曰く「我々のある所に死はない、死のある所に我々はない」「セナカ曰く「生は適切に活用すれば十分に長い」「僕はその全てに賛成です」(1巻)「人は悲劇を肥やしに、時に新たな希望を生み出す」(2巻)「この世は最低と言うには魅力的すぎる」(3巻)「……夢っていうのがあると、とりあえず1週間くらいは悲劇に耐えられる気がします」(4巻)「チッ」「クソッ」(5巻)「朝日はすべてを勝手に照らす。隠れたくても、見たくない日も、勝手にやってくる。しかも決まって律儀に毎日昇る。誰も逃げられない。私の大嫌いな運命って言葉を思い出す」(6巻)「ここで終わったら、ヨレンタさんの感動も死ぬ」(7巻)「これだけは覚えていてくれ」「真理の探求において最も重要なことだ」「信じろ」(8巻)。▼編集者なのかデザイナーなのか、あるいは作者自身のアイデアなのか、コミックスのカバーを外すと、その巻から選び抜かれたパンチラインが本表紙に列記されていて圧倒される。私チョイスの1巻からの抜粋はこの列記には含めれていないが、ヒップホップが得意とするサンプリング(この場合ならば、登場人物の言葉ではなくソクラテスなどの元ネタがあるということ)さえ使われている。さらに、5巻での抜粋「チッ」はふつうに考えるとパンチラインではないのだが、作者のユーモアがヒップホップ的かもしれぬと感じたのであえてのチョイスとした。チ。=知であり、地であり、血などであるのだが、くそったれという意味での「チッ」でもあるかもということ。知や地や血だけでなく、そんな中指を立てる所作までも掛けているとしたら、ある種のユーモアを感じて激しく共感する。さらに言えば、7巻まではパンチラインが列記されていたカバーを外した本表紙、その8巻にはある仕掛けがほどこされていた。その仕掛けの意味するところはなんなのか。私はまだ考え続けている。8巻の本編でのある登場人物の意味するところとは、と同じように▼『チ。』に「ヒップホップだね!」を感じるもうひとつのポイント、それはレベルミュージックでもあること。もちろん、『チ。』は漫画というエンターテインメントなのだから純然たる〝ミュージック〟ではない。でも、あえて音楽になぞらえるのなら、『チ。』で謳われているのは、名も無き抗う者たちの半生であった。それは人生とすら呼べないほど、儚く短きもの。文字通り、命を賭して、地動説を信じた人々の物語。ひるがえって、いまの時代もまた、私が敬愛する芸人ですら浮気が許されない〝説〟が主流だ。そんな時代に、ヒップホップという表現は、ひとつの光なのかもしれない。ある者は自らの生き様をストレートに、ある者は知性を屈指してユーモアすら散りばめつつ、世の常識(主流とされる説)というやつに「チッ」と風穴をあけてくれている。そして、音楽ではないけれど、私にとっての漫画『チ。』は、そういう意味でも「ヒップホップだね!」な傑作であった(唐澤和也)