からの週末20220312(土)
1999年の荒城の月
▼オリンピックの開催周期ぐらいの割合で、ふっと考えることがある。インタビューとはなんぞや?と。今日は南町田の撮影スタジオ。バスケットコートだったら6面が取れるほどの巨大なスタジオなので、1週間前までは底冷えがひどく、足元の電気ストーブが欠かせなかった。けれど、本日の最高気温は20度。三寒四温ってやつを繰り返し完全な春になるまでもう少し。そんなタイミングで4年に1度がふっと訪れた▼プロになってすぐの頃と、それから25年以上がたったいまとでは自分也の答えに変化がありそうだけれど、専門学校で未来のライターに教えていた35歳ぐらいの頃は、我ながらいいことを言うなぁと悦に入っていた気がする。いわく「カチコチに凍った硬いハーゲンダッツをどうやって食べるか? それがインタビュー」(生徒全員、どういうこと?って顔)「自由ということ。硬いハーゲンダッツが溶けるまで待って食べてもいいし、力任せにスプーンで削って食べてもいいでしょ?」▼いま振り返ると悦に入るほどじゃあ、全然ない。というか、思い出した。その頃、後輩ライターのMくんに『深夜特急』などで有名な沢木耕太郎さんのインタビュー論を教えてもらったのだった。Mくんいわく「沢木さんの考える、よきインタビューって水路をつなぐことなんですって」(ん? どういうこと?)「取材される側の本人すら言語化できていなかったことを質問を通してつなぐ、みたいな意味らしいっす」。(なるほど!)。初見ならぬ初聴の衝撃を思い出すまでもなく、たしかに至言だ。そして、その至言を踏まえて、身の程知らずにも沢木超えをせんと挑んだ専門学校講師時代の私の言葉は、いいこと言ってやろう感がにじみでていて、いやらしいったらありゃしない。しかも、沢木さんの至言をインタビュー論とするのなら、当時の私のそれは、せいぜいがインタビュー術もどき。道場破りしようとしてすぐにやられちゃうモブキャラみたいで恥ずかしい▼それに、ですよ。力任せにスプーンで削って食べるようなインタビューなんてダメじゃんといまの私は感じたが、その点だけは、そうでもないかもと思い直した。たとえば、はじめての松本人志さんインタビューの時。1999年のことだった。あの傑作『ビジュアルバム』の〝ビデオ〟リリース時のプロモーションタイミング。その時の私は「殴られてもいいから聞きたいことを聞く」と心に決めていた。結果的に松本さんはどんな質問にも答えてくれ、予定の時間を大幅にすぎている私を制しようとしたマネージャーを逆に制して、こちらの気の済むまで質問に答えてくれた。うれしかったし、ありがたかったけれど、少なくともスマートではないし、かなり力任せなインタビューだったなぁと思う▼この手の文章を書くということは自問自答なので、自分で自分にインタビューしているようなもの。するすると記憶の水路がつながっていく。松本さんインタビュー時の「殴られてもいいから聞きたいことを聞く」のひとつが「コントを見て泣いちゃった」という質問というよりも感想であり告白だった。いきなり泣いちゃったわけじゃなく、最初は笑った。でも、質問を探すために何度も何度も見ているうちに、登場人物の夫婦が切なくて泣いてしまったのだ。夫婦を演じたのはダウンタウン、そのコントの名は「荒城の月」という▼夕方になってしまった南町田の大きなスタジオは、20度な日中が悪い冗談だったかのように冷えてきた。電気ストーブをつけつつ、そろそろ自分なりのインタビュー論でシメをと思うが、やっぱり沢木さんのような至言なんて語れやしない。それでも、自問自答は悪くなかった。「殴られてもいいから聞きたいことを聞く」という心意気のようなものは年齢やキャリアに関係なく忘れちゃだめだぞと再認識できたし、インタビューとライティングをようやくニコイチで捉えられそうな予感もある。昔からインタビューそのものは大好きだったけれど、現場でもらった言葉を道標のようにして原稿を書くことが最近になってようやく、意外と嫌いじゃないかもと感じているからだ。いまさらだけど。さーて、今日から4年ぐらいは論なんて考えずに、やってやるぜ、私なりのインタビューを。三寒四温のはての春が待ち遠しい(唐澤和也)