からの週末20211202(木)
ワーカホリックだって夢をみるのさ

▼カメラがゆっくりと寄っていく。東北あたりの港町だろうか。雪が舞っている。時折強く吹く風に揺られるのは、年季の入った赤ちょうちん。「……っていう焼き鳥屋なのかちっさい居酒屋なのかをやってるのが夢です。それで、僕が焼き鳥を焼いているとカウンターで映画好きの大学生かなんかが話しているわけ。『あの映画見た?』『見た見た!』とハリウッド大作の話題で最初は盛り上がるんだけど、そんな流れでふと『ちょっとマニアックなんだけどさ』と自分の昔の映画を見た話をし始める。僕はそれまでと変わらず淡々と焼き鳥を焼いてるんだけど、内心すげぇうれしいっていう。でもね、そのお店の雰囲気だとかはすべて映像として見えてるのに、店の名前だけがぼやけて読めないんですよ」▼そう言ったあとであの抜群の笑顔を見せてくれのが三池崇史監督だった。赤ちょうちんの名前だけがぼやけて見えないだなんて、まさに映像作家然としていて、なんと素敵な描写なんだろう。このパンチラインが聞けたのは、拙著『負け犬伝説』の取材でのことだった。いま、久しぶりに再読してみたらこのことは書いていなかったから、雑談のなかのパンチラインだったのだと思う▼一般的に〝拙著〟というのは謙遜の意味を込める類の言葉なのだが、『負け犬伝説』は謙遜もなにもなく、まごうことなき拙著だった。まず、文章が下手くそだ。そして、売れなかった。著作にかかわらず、インタビューだけ携わさせてもらった書籍を全部ひっくるめても、圧倒的に売れなかった。負けなかったのは名前負けしなかったことぐらいで、つまり、名前通りに負けてしまう。でも、いまでもこの書籍を嫌いになれないのは、その頃から定着しはじめた〝勝ち組負け組〟という言葉が大嫌いで、そういうムードに抗いたいという個人的な思いにもかかわらず、インタビューさせてくれた方々がいてくれたということ。それがいまでもありがたくて、たまに読み返して、その拙さにやっぱり頬が赤くなる▼大好きな映画監督である三池さんにも是非ともでオファーをしたのだが、当時からわけのわからない映画を撮ることもあった鬼才に「企画書を何度も読んだんだけど、結局、意味がわかりませんでした」と言われたのは、なんだか妙にうれしかった。ほかの方々はその人たちに詳しい関係者へ周辺取材を重ねるなどはしたものの、いわゆる通常のインタビュー原稿だったのだが、三池さんには私が大好きな作品『喧嘩の花道』の主人公ふたりがもし実在していて、彼らの「人生の勝ち負けってなんなんだ?」ということを問いたいとオファーしていた。でも、格闘技の世界にモデルらしき人物がいるにはいるけれど、彼らはこの映画のなかの住人。であるならば、その生みの親である監督に登場していただきたいというオファーだった。うん。こうして改めて言葉にしてみても、なにをしたいんだか自分でもよくわからない。でも、三池監督はそのわけのわからないオファーを快諾してくれた▼冒頭のパンチラインは雑談のなかで私の記憶に鮮烈に焼きついたものだが、『負け犬伝説』のなかの三池さんのパンチラインは、勝ち負けに対する回答だった。次の三池さんのコメントに登場するトシオとは『喧嘩の花道』の主役2人と近しい関係だったのにもかかわらず、ある出来事から裏社会に堕ちてしまった男である。「トシオの最後の疾走は、ある種の皮肉なわけですよね。あんなにも自分に近かったふたりが晴れ舞台で戦っていて、俺は逃げるために走ってる。でも、そんな人生も面白いかもしれない。そんな感情を、勝者ではなく、敗者だからこそわかる瞬間。それを感じられれば、人間って、ずいぶんと楽になれると思う。負けて、どん底になって、ぐしゃぐしゃになったとき、どしゃぶりの雨に打たれすぎるほど打たれたとき、『あぁ、それでも面白いな、人生は!』と言えたなら。おそらく、世間から見たら敗者だって言われるんでしょうけど、その境地には金も何もいらないわけで。だから、たとえ、どうなっちゃっても、なんか笑えるというか。気楽に死ねたり終われるというのは、僕自身の夢と言えば夢でもあるんですよ。その部分は、僕の死生観ともバッチリ、つながっていると思います」▼さて、拙著『負け犬伝説』が負けていないのはその名前ぐらいだと自虐ったが、今回のタイトル「ワーカホリックだって夢を見るのさ」に対するここまでの文章は、いったいどうしたもんなんだろう。名前負けというか、看板倒れというか、タイトルに紐づくことをほとんど書いていないじゃないか。すんません。というわけで、次週こそ。「ワーカホリックだって夢を見るのさ」について書きます(唐澤和也)