からの週末20210703(土)
生まれるのも日常、死ぬのも日常

▼あけまして、旅りたい。これは、私の年賀状のけっこう切実な願いみたいなものだったのだが、願ってみるもんですね。まだまだ世の中は余談を許さぬ感じだとはいえ、新年早々の漁師カレンダーの旅取材に続き、昨日は某ポスター撮影のためのロケハン出張だった。ロケハンだろうと旅は旅だ。かなりの雨予報だったがカメラマンMくんと相談してGO。長野県のキャンプ場を2つまわる予定で、ひとつ目のキャンプ場は小雨のなかだったけれどふたつ目のキャンプ場では、まさかの青空が。早朝6時から夜8時までの弾丸1日旅だったけれど、あの青空と気温18度のカラッとした空気のなか、デザイナーSくんとの男3人窓全開ドライブは、なんだか久しぶりの爽快な日常だった▼さてさて、前段の文末「日常だった」って語感、みなさま的にはどうなんでしょう? オリンピック開催というアクセルと自粛生活というブレーキとの矛盾によるどんより感が漂う今日この頃の東京の感覚だと、長野県のロケは「非日常」としても文意はつながると思う。たぶん、ちょっと前までなら「非日常」なハレの日として文章に綴るほうがどちらかといえば好きだったようにも思う。ところが、ある映画の影響で「日常」という語感に変化が訪れている▼そもそも、日常について、これほどまでに考え続けることが私にはかつてなかったこと。大病を患ったり、大きな事故に遭ったりして、それでも一命を取りとめた人の多くは「当たり前な1日のなんと尊いことか」といったことをよく口にされる。いままでは気づかなかった。当たり前だと思っていた。その当たり前が当たり前でなくなった時に当たり前な1日の尊さに気づくと。コロナ禍のいま、同様の思いにかられる人もたくさんいるだろうし、私だってそのひとり▼そんなタイミングで、このパンチラインである。「生まれるのも日常、死ぬのも日常」。人間国宝・三代目桂米朝師匠の名言にして、ある芸人が大切にしていると教えてくれた言葉。そんな芸人を17年間追い続けた映画を見てから、ずっとこの言葉について考えている。いや、というよりブルース・リー状態。パンチライン界のオールドスクール世代の人ならばみんな大好きな名言=「考えるな、感じろ」状態なんである。「生まれるのも日常、死ぬのも日常」という言葉の概念を考えるのではなくなるべく感じようとしみると、なんだか不思議な感覚▼なんというか、この言葉の意味みたいなものが重みを増したようにも、いままでよりもずっとずっと軽やかになったような矛盾する感覚がある。重みを増したほうは<生まれるのも死ぬのもそれはもう大変なこと。たぶん、人生の出来事は全部大変。だからもっと味わって生きてみますか>だし、軽やかなほうは<生まれるのも死ぬのも一緒。もっと言ったら人生の出来事は全部一緒。重いも軽いも深いも浅いもない。だからもっと気楽に生きてみますか>。なにぶん、感覚なので言語化しても伝わらないもののほうが多いけれど、いま現時点での精一杯がこんな感じ。ただ、「生まれるのも日常、死ぬのも日常」という名言が心にあり続けるのは変わらなくて、アンチブルース・リーな心境で、感じるよりも考える日もあるだろう。でも、そんな言葉がまたひとつ増えたことがちょっとうれしい▼そんなきっかけをもらえた映画のタイトルは『バケモン』という。ある芸人=笑福亭鶴瓶を17年間追い続けたドキュメンタリー映画である。考えさせられるし感じさせられる映画なのはもちろん、ぱちんとスイッチを入れてくれる作品でもある。この映画を観た前と後とではなにかが変わる、そんなスイッチを押してくれる作品。ある原稿を書くために、わがままを言って試写を2回観させてもらったが、もう一度街の劇場にも行こうと思っている。ぱちんとスイッチを押してもらうために(唐澤和也)