からの週末2020809(日)
爆笑問題とパリ、テキサスとOさんのこと

▼その人とのはじめての会話は、いまでもよく覚えている。無気質な白ホリの撮影スタジオにカメラマンさんが選んだ無骨で哀愁のある曲が流れていた。「この音楽、なんの映画のサントラだっけ?」と、不機嫌そうな感じで聞くその人に「ライ・クーダーの曲で『パリ、テキサス』のサントラです」と答える僕。いまから25年前の会話▼我ながらビックリしているのが、よくもまぁここまで鮮明に記憶に残っているなぁということ。たぶんその理由は、尋常じゃなく気合が入っていたから、異常なほどに集中力が高くてインタビュー以外の雑談も覚えているのではないかと思う▼じゃあ、なぜそこまで気合が入っていたかの理由にはふたつあって、ひとつは〝その人〟が爆笑問題・太田光氏(以下、太田さん)だったから。当時の僕はお笑い、というかコントの劇団の裏方を経てライターになったばかりの頃。冗談画報というテレビ番組で爆笑問題がやったコントに衝撃を受けていたし、しかも一度シーンから消えて復活してきていた爆笑問題の頭脳であるほうに興味がないわけがなかった。否が応でも気合が入る▼そしてもうひとつの理由が、その時の取材がBARTという雑誌のものだったこと。これがまた書きたくて書きたくて仕方のない媒体で気合が入りまくったというわけ▼BARTの版元は集英社で、当時すでにレギュラー仕事をもらっていた週刊プレイボーイの編集部の隣りにあったのだけれど、なんというか、同じ集英社でも週刊プレイボーイに比べるとライティングIQが高いというのか、当時の若手ライターが憧れたカッコつけた言い回しも許される媒体というか(しかし、じゃなくて、しかし。とマルどめにするとか)とにかく「書きてぇ!」と熱望して、ライター人生ではじめて編集部に売り込みに行ったほどの憧れの雑誌だったのです▼売り込みに行った集英社のHさんには、いまだにお世話になっている。このHさんがいま思うと変わった売り込みへの対応をする編集者で、こっちはBART用の企画書を何本も持って気合入れまくりで会いに行っているのに「28歳でライターになったってそれまでなにやってたの?」などと、小1時間ほど、ずーーーーーーっとインタビューされて、企画書はついぞ1本も読んでくれずに、その日の売り込み的なものが終わってしまう▼Hさんが若手ライターのなにをみていたのかはわからないけど、その後、なぜか仕事をもらえるようになって、何発目かの仕事が〝爆笑問題が美談を疑う〟というテーマだった。企画立案はHさん。当時、すでに太田さんが書いた『日本原論』はベストセラーになっていたから、ある種の爆笑問題テイストは踏襲しつつBARTらしい、ちょっとひねくれたインテリジェンスも出せそうな素晴らしいテーマだった▼案の定、パリ、テキサスの雑談終わりのインタビューは最高におもしろかった。この経験が、以前の週末にも書かせてもらった太田さんの自伝『カラス』につながっていく▼さて、今週の話。そんな始まりから25年。2018年に取材・構成を担当した『違和感』が新書仕様となって、扶桑社からこの秋に発売されることとなり、とはいえ、2年前とは世界のありようがあまりにも変化したので、巻頭言として今回用のインタビューをさせてもらおうとなる▼太田さんと2年ぶりの再会、そのはじまりの雑談が忘れられない。25年前とは違う、やさしい顔で太田さんはこう言った。「Oさん、残念だったね」▼Oさんとは、ぴあの編集者だった人だ。少々ややこしいのだが、この秋に出版予定の新書は、元々ぴあで連載されていて、のちに単行本が出版された『しごとのはなし』を扶桑社の編集者の方が読んで気に入ってくれたことがきっかけだった。『しごとのはなし』はOさんが立てた企画だった。つまり、Oさんのおかげで『違和感』があり、今秋の新書があるとも言える▼そんなOさんは残念ながら、昨年亡くなってしまう。早すぎる死だった。太田さんはOさんが亡くなる前に電話で話せたそうで、僕が病院で最後に会った時の様子を「言葉としては間違ってるかもですけど、粋な最期でした」と伝えると「うん、うん」とうなづいてくれた▼Oさんは、あっちで元気にやっているだろうか。もう体調のことも気にしなくていいから好きなだけタバコをふかせているといいなぁと思う▼それにしても、不思議なループだ。劇団が解散してライターを目指したあの頃、どうしても書きたいと願った雑誌は、集英社のBARTと、週刊ぴあと、週刊SPA!の3誌だった。週刊SPA!の版元は扶桑社という出版社で、『違和感』と今秋の新書の編集担当Sさんは、僕が同誌で書けるようになった頃の何代か前にはなるのだが、週刊SPA!の元編集長だったそうだ(唐澤和也)