からの週末20201108(日)
朝っぱらから才能について考えさせられた火曜日からの週末

▼いやぁ、NHKの朝ドラってすごいんですね。あまちゃんブームの時は完全に乗り損ねて、かなり後半からの参戦となったので、そのすごさの1%ぐらいしかわかってなかった気がするけど、現在放送中の『エール』のヒロイン・音さんの生まれ故郷が、愛知県豊橋市という自分の出身地のお隣りの市という親近感から見はじめただけの『エール』に心を鷲掴みにされている今日この頃。カラフルな『エール』というタイトルロゴから色彩が消え、モノクロの『エール!』だった戦争の物語週は、なんだかいまのコロナの時代とも重なるものがあったりしつつ、極め付けは今週の火曜日放送回。そこで描かれたのは〝才能〟についての市井の人のパンチラインだった▼思春期丸出しの少女は「やりたいことがないとダメなの?」と言う。「目標があるのがそんなに偉いの?」とも言う。母親に向かっての言葉なのだが、その母親=ヒロインの音さんで、音さんは子供の頃から歌うのが好きでその才能にも恵まれている。それでまた、音さんの旦那さん、つまり、思春期丸出し少女の父親は、稀代の天才作曲家だったりもする。少女が才能に悩むのは才能に恵まれた両親のせいだったりもするというわけだ▼そんな少女に才能にまつわる言葉を渡すのが、音さんの姉、つまり、少女にとってのおばさんだ。実はこのおばさんは長女なのだが、次女の音は音楽の才能、三女の梅は文学の才に恵まれているなか、彼女がだけがふつうの女性として描かれているという前フリがあった。そんなふつうのおばさんが口にしたパンチラインは「才能って大袈裟なものじゃなくて日常に転がってると思うけどな。私、コロッケをおいしく揚げられた日は自分のことを天才だと思うもん」だった。▼NHKの朝ドラだからこそ、三姉妹のキャラクターを子供の頃から丹念に描いてきてくれたからこそ、ふつうのおばさんのひとことはグッときた。才能かぁ。僕に限らず、インタビューを生業とするライターは、才能についての問い、あるいは分析することは、一般的なことだ。分析でいえば〝インタビュイーならではの魅力とは?〟と考えることはその人の才能について考えることとイコールニアだからだ。それでもなお、火曜日のおばさんが口にしたようなパンチラインをこれまでに出会った有名人・才人のインタビューでは聞いたことがなかった。まさに市井の人だからこそのリアリティのある才能〝論〟だったと思う▼振り返って、我がインタビューの現場。質問を定型化(フォーマット)することをかなり意識的にさけてきたので(そういうことをし始めた瞬間からインタビューを嫌いになっていく予感みたいなものがあリました)、繰り返し同じ質問を才人たちにぶつけるということをほとんどしてこなかったけど、才能に関するこの質問「他者との比較ではなく、自分の中で一番誇れる才能とは?」だけは別だった。▼サザンオールスターズの桑田圭佑さんは「17才の頃の自分の感性をいまだに信じられているところ」と笑った。松本人志さんは「サービス精神」と即答してくれた。「野に咲く花だってサービス精神があるのにましてや自分は芸人だから」と続けた▼この質問をはじめて思いついたときは、かなりテンションが上がって、それこそちょっとだけ(才能あるんじゃないの、俺?)と勘違いしたものだが、いま、思い至ったのは、もっと切実な、身を切るような、自己の経験から生まれた質問だったのだなぁということ。切とか実とか痛とか感とかの漢字が思うさまに任せてのタイピングで浮かび上がってきたけれど、まさにそんな感じの漢字の経験が自分にあったからだ▼それは、ライターになる前、劇団の裏方だった頃のこと。僕がお世話になっていたのは、コントを演る、笑いの劇団だった。自分の肩書を裏方と書いたが、本当はバラエティ番組の放送作家になれたら劇団にとっても自分にとってもよい環境だった。師匠は一線級の放送作家でもあったから、チャンスも多かった。ところが僕には、まったくもって笑いの才能というものがなかった。皆無。虚無。まさに、ゼロ。笑いの世界のプロの人からはまた別の意見があるような気もするが、夢破れた者として思うのは、笑いの才能とは野球のピッチャーでいえば速い球が投げられたり、バッターでいえば、遠くまで打球を飛ばせるような資質と同じだ。150キロを投げられる高校生がプロに入ってさらに努力して160キロに到達することはあるだろう。でも、130キロしか投げられない人が、少なくとも本格派としてはプロのピッチャーにはなれないように、お笑いの世界でも、まずは持っているものの有り無しがとてつもなく大きく左右する▼当時はこんなふうに俯瞰して才能について考える余裕なんてあるわけもないから、ため息交じりに(なんで俺はおもしろいコントを思いつかないんだろう?)と毎日思いつめていた。師匠も劇団の先輩も後輩もみんな優しかった。それこそゼロな人にも伝わるように笑いのイロハを教えてもくれた。でも、だからこそ辛かった。期待に応えられない自分。なんで俺は?なんで俺は?ばかりがループする日々。そもそもこの〝なんで?〟という思考回路が才能のない証拠で、やがてプロとなる才能のある後輩の作家は〝どうすれば?〟をいつも考えていた。なんで俺はおもしろいコントを思いつかないんだろう?と真剣に悩んでいるようで実は思考放棄している人と、どうすればいま考えているコントがさらにおもしろくなるのかな?と常に考えている人との差というやつは、ことのほか大きい▼ところが、劇団が解散しライターになってからはとことん楽だった。収入的にはピンチの時ももちろんあるけど、精神的には常に楽だった気がする。それは、めちゃめちゃ才能に恵まれていたからなんてわけでは一切なく、というか、むしろ一回もライターとしてめちゃめちゃ才能があるなんて思ったことはないけれど、ゼロと思ったことがないことが楽だった。めちゃくちゃある人を100だとすると、たぶん1はある。だったらそれでいいや。1あれば充分と心底思えたのは、劇団時代にゼロを痛いほどに知っていたから。徹底的に底をなめるという経験は、捨てたもんじゃないのかもしれない▼しかも、思いついてからずいぶん経ったいまに至ってはじめて気づいたけど、ゼロを知る経験が先の質問「他者との比較ではなく、自分の中で一番誇れる才能とは?」に繋がっているというありがたさ。放送作家志望者としてはゼロ、ライターとしては1という比較って、まったくもって他者との比較じゃないもんなぁ▼そして金曜日。『エール』の音さんが才能にまつわる切ない気づきの言葉を号の泣とともに告白した時には、見てるこっちも剛の泣でした。あと、忘れぬように自分にメモですが、一般の人へのインタビューが増えつつあるいまこそ、市井の人が考える才能論もお聞きしてみたい。気仙沼の漁師さんの才能論なんて想像しただけでワクワクする(唐澤和也)