からの週末20201009(金)
雲ひとつなくもなく①

▼いやはや、いったいいつどんなテンンションでこのような文章を書いたのか。自分で書いたくせに一瞬別の誰かが書いたんじゃないかと思うような原稿を、けっこう見つけたりします。現実逃避でパソコンのふだん開かないフォルダを探検していたりするととくに。それでまた、たまーにですけど、ちょっと好きな原稿があったりもします。たとえば、7年前に書いた原稿はこんな感じ▼▼▼うちの母は、なにかと言うと五七調で句を詠んでくる▼大学生になったばかりの頃、田舎から段ボールいっぱいに、みかんやら粉末のスープやらを送ってきた時も一番上にのっかっていた手紙には、こんな句が詠まれていた。<これ巻いて 風邪を引かずに 和也さん>。段ボールの中身を探すと、腹巻きが奥のほうに敷かれてあった。実家で暮らしていた頃の僕が、腹巻きを使っていたのならまだわかる。だが、思春期に突入して以来、風邪を引かぬよう、なにかしらの布切れ一枚すら腹に巻いたことがないのにもかかわらずの句、である。下宿先での出来事だから誰に見られているわけでもないのに、僕は顔を真っ赤に染め、腹巻きとその手紙をゴミ箱に捨てた▼母には父がいなかった。私生児というやつである。母に母はいた。僕からするとばあちゃんだ。仙台の富豪の妾だったらしいばあちゃんは、ある時、「私か本妻かどちらかを選んでください」と勝負に出るも惨敗。まだ小さかった母の手を引き、仙台から僕が生まれることになる愛知県豊川市に流れ、そこで母は父と出会うことになる。時代的にもお見合い結婚とばかり思っていたが、大恋愛だったそうだ。中学を卒業すると、母は手に職をつけ、理容師となる。その勤め先に通っていた父は、ほかの理容師の手があいていても髪を切ってもらおうとせず、かといって母を指名するわけでもないのだが、結局、母の手があくまではなにも言わず待ち合い席に座っているというわかりやすい求愛行動に出る。高倉健か! のちに心の中でそうツッコんだが、寡黙で実直な父らしいこのエピソードが、僕は好きだった▼そんな父が、手術を受けることになった。その時ばかりは、母が句を詠むこともなく、電話でひとこと「帰ってきなさい」と告げられた▼手術当日。僕と姉と母とで病院に向ったのだが、母はいままでに見せたことのない早歩きで父の病室へ急いだ。僕は父の病室番号すら知らされていなかったから、そのあとについていくしかない。母の背中をこれほどまでに見続けたのは始めてのことだった。はぁはぁと息があがっている。それでも、その早歩きの速度を緩めようとしない母の背中を見て、僕は、いかに父が愛されているかを初めて理解したような気がした▼それから数年後、今度は、母が手術を受けることになる。だが、父の時とは違い、僕がその事実を知ったのは、手術が終わってからだった。我が家の高倉健が、寡黙だったからではない。母が固く口止めしたのだという。あの子はいまが仕事の勝負時だ。私は大丈夫だから、あの子の仕事の邪魔をしてはいけない、と。実は、父の手術よりも母のそれのほうが大変なものだったのに、母は無事に手術が終わったあとですら、かたくなに息子の帰省をこばんだ。男は息子という肩書きがつくと、おおむね甘える。仕事が忙しかったとはいえ、週末はある。でも結局、僕が帰省することはなかった▼そんな週末に、携帯の着信音が響く。<いわし雲 窓いっぱいに 泳ぎけり>。病室から届けられた、母からのメール。手紙の頃と同じように五七調である。私は大丈夫だから、あんたは自分の仕事をがんばんなさい。そう言われたような気がして、僕は、その時はじめてゴミ箱に捨てた腹巻きと手紙のことを後悔した▼▼▼追伸。ある女性アーティストのライブをお手伝いした時の原稿ですが、あれから7年がたったいまも父と母は元気です。そういえば、最近の母は句を詠んでくれないのがちょっと寂しい(唐澤和也)