20241117(日)
海と生きる人たち

▼昭和の古めかしいイズムなのだろうか。仕事中に涙など見せるものではないと思っているのだけれど、どうしても我慢できなかったことが約30年のライター人生で何度かある。たとえば、書籍『負け犬伝説』でメジャーリーガー・田口壮さんに登場してもらった時のこと。当時の田口さんは、日本のプロ野球でいうと2軍どころか3軍まで落とされていた。けれど、関西出身者の心意気なのか、苦境や逆境すら笑いに変換して日記に綴っていたことに感銘を受ける。『負け犬伝説』では、ご本人のインタビューだけでなく周辺取材も徹底すると決めていたから、パートナーの恵美子さんへの取材もお願いすることになる▼「アメリカに渡って一番うれしかったことはなんですか?」と僕が聞くと、恵美子さんは静かに答えてくれた。「2Aから3Aを飛び越して、メジャーに昇格した時が一番嬉しかったですね。最後の2Aの試合をニューヘブンで見ていたら、地元のファンの方が話しかけてくれたんですよ。『知ってるか? 最近、メジャーで日本人選手が活躍するようになっただろ。俺たちは彼らを、輸入品って呼んでるんだぜ。ま、それはそれですごいことさ。でもな、壮は輸入品じゃないからな。ニューヘブンで育って、俺たちが自信を持って、メジャーのセントルイスへ送りだすんだから。わかるだろ? 壮はインポートなんかじゃないぜ』。主人の苦労が報われた気がした瞬間でした」と。ダメだった。青空と異国の野球ファンの顔が脳裏に浮かぶ。インタビュー中だというのに、どうしても涙がこらえられなかった▼たとえば、『海と生きる 「気仙沼つばき会」と『気仙沼 漁師カレンダー』の10年』。本書は、一切のノウハウを持たずに『気仙沼漁師カレンダー』という傑作を日本を代表する写真家たちと10年間も作り続けた人たちがいて、その軌跡を追ったノンフィクションだ。「気仙沼つばき会」の女性たちと漁師と写真家たちが主人公である▼「気仙沼つばき会」の女性たちへのインタビュー中はなんとか我慢できたけれど、書いている時がダメだった。やっぱり、その時の絵が浮かんでしまう。「気仙沼つばき会」3代目会長であり『気仙沼漁師カレンダー』の発起人のひとりである斉藤和枝さんは、震災から2日後にご自身の工場があった場所へ、以前なら1時間もかからない道のりを半日かけて確かめに行ったそうだ。「工場は全部流されていて基礎しか残っていませんでした。泣きました。散々泣いて、でも、しょうがないって自分をどうにか納得させて帰ろうとした時、真っ黒に焦げてしまった船が並ぶ港に、真っ白い船が帰ってきてくれたんですよ。数日前に気仙沼から出港した、無傷の真っ白い漁船でした」▼『気仙沼漁師カレンダー』のもうひとりの発起人である小野寺紀子さんが教えてくれたのは、その漁船の心意気だった。実はそのタイミングでの帰港は、船が破損してしまうリスクのあるイチかバチかのものだった。それでも漁師たちは、出港時に積み込んだ水や食料を全部おろして、少しでも気仙沼の人々の役に立てたならと帰港してくれたのだという。脳裏に浮かぶんだのは、真っ黒の世界にふっと現れた真っ白な漁船の姿。ダメだった。昭和の男でも無理だった▼振り返れば、集英社の編集者である宮崎くんから本作のオファーをもらったのが、約1年前のことだ。写真家たち、漁師、そして「気仙沼つばき会」メンバーを新たに取材することで、なぜ『気仙沼漁師カレンダー』は10年継続の目標を実現できたのか。いまだから聞けることもあるはずだとの企画が魅力的だった▼劇団の裏方出身である僕は、劇団のメンバーが売れるといいなぁとずっと思っていたけれど、残念ながら28歳で解散してしまう。以後、くるっと逆転して自分のことを考えるようになり、どちらかというとエゴの強い書き手であったように思う。でも、57歳のいま。ライターになってはじめて、劇団の頃のイズムで文章が書けたような気がしている。エゴそのものを否定する気は一切ないのだけれど(表現者のエゴからうまれるものも絶対にある)、今回の文章に関してはどうでもよかった。気仙沼つばき会や気仙沼で出会った漁師たちの「にもかかわらず笑うということ」的な意地と誇りと喜怒哀楽を、ひとりでも多くの人に知ってもらえたならと願った。そして、いまも強くそう願っている(唐澤和也)